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阿野全成は何しにでてきたのか。そして何を修行してたのか?
2022年2月20日(日)、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第7話「敵か、あるいは」が放送されました。
安房に逃れて再起を図る頼朝(演:大泉洋)が頼みの綱とした房総平氏(上総氏、千葉氏)が、いかにして頼朝に従ったのかを描いております。
ちなみに千葉氏棟梁・千葉常胤(演:岡本信人)の元に使者として赴いたのは安達盛長(演:野添義弘)ですが、上総氏棟梁・上総広常(演:佐藤浩市)の元に赴いたのは和田義盛(演:横田栄司)のみです。義時は広常の元には行っていません。
このドラマは義時が主役ですので、見せ場を作るための創作であったと思います。
上総氏と千葉氏は共に祖先を同じとする兄弟氏族ですが、その勢力は段違いでした。
頼朝に駆けつけた二人が引き連れた勢力は、上総国内に一族広げて実効支配していた上総広常が2万騎。下総一部を実効支配していた千葉常胤が300騎というあたりにそれがでていると見えますが、広常の2万騎も文献によって様々なので、額面通りに受け止めることもできません。
ただ、上総広常の一族が上総国全域(というか下総一部も含みますが)を実効支配していたのは本当のようです。
上総広常に迷いはなかった
吾妻鏡によれば、1180年(治承四年)9月4日に上総広常の元に出かけた和田義盛は、翌日には頼朝の元に戻ってきています。その時の模様が下記です。
治承四年(1180)九月大六日乙卯。及晩。義盛歸參。申云。談千葉介常胤之後。可參上之由。廣常申之云々。
現代文訳:昨晩、和田義盛は帰ってきました。その義盛が言うには「広常は千葉介常胤(千葉常胤)と相談してから参上する」と言っていたようです。
なので、広常自身は平氏と源氏どっちにつこうか迷っていたというより、下総国の代表である常胤と相談して、房総平氏としての統一見解(方針)を出そうとしていたのではないかと思われます。
とはいえ、広常、常胤の両氏が頼朝に味方すると決めても、庶流の一部は反抗するんですけどね(汗)。
一方の千葉常胤の方ですが、使者として出向いた安達盛長は9月8日に頼朝の元に戻ってきています。ドラマではあっさり
「千葉常胤が平家打倒に力を貸してくれることを約束してくれました」
で済ませてますが、「吾妻鏡」には以下のようなが記載されています。
盛長に応対したのは千葉常胤本人とその嫡男・千葉常正と五男・千葉胤頼の3人です。
ちなみに、胤頼は京都大番役で京に行っている時、以仁王の乱にでくわしており、一緒にいた三浦義澄(演:佐藤B作)と共に坂東に帰国後、まっさきに頼朝に以仁王の顛末と頼政の死を伝えています。
盛長が頼朝への加勢を願うと、常胤は一言も言葉を出さなかったので、息子たちが
「頼朝様の挙兵は、まさに眠れる虎が目を覚ますが如くのこと、先代義朝様のつながりを頼り、世の中を我が物顔でのさばっている狼のような平家を滅ぼそうと、千葉家に呼びかけられているのに、父上はなぜ黙っておられるのか」
と尋ねると
「頼朝殿への加勢に何の異論も無い。平家全盛のこの世の中において、衰退著しい源氏の権勢を盛り返そうという御心に、感動の涙が目に溢れている。だから何も言えないのだ」
と答えたとあります。
さらに
「今、頼朝殿がおられるところは物騒で、先祖の謂れもない。速やかに相模国の鎌倉へ行かれるが上策。常胤が軍勢を引き連れて、頼朝様をお出迎えに参ります」
と述べており、ここで初めて「鎌倉」という地名がでてきます。
また、ドラマでは千葉常胤は上総広常にこう言っています。
「戦ってこその武士!齢六十を超え、お迎えの準備でも始めようかと思っていた矢先に、誉(名誉)ある戦で大暴れしないかと話がくれば、乗らない手はない。違うか?
これだと、「近所で揉め事が起きているから、それにかこつけていっちょ大暴れするか」という危ない爺さんというイメージがついてしまいます。
常胤の名誉のために一言付け加えるならば、彼はこの時、頼朝と同じ河内源氏の一族で、平治の乱の後、下総に流罪にされた源頼隆(八幡太郎義家の七男・源義隆の子/頼朝)を頼朝に引き合わせています。
実は常胤は平家よりこの源頼隆を監視するように命じられていましたが、亡き義朝(頼朝の父)の縁から、この頼隆を大切に養育していました。
また頼朝もその恩を感じ、ドラマでの頼朝の発言
わしはこれよりそなたを父と思おうぞ
につながるのだと思っています。
ドラマではこの時、下総の目代の首を「土産がわり」に持ってきていますが、「吾妻鏡」だと、この時の土産が、前述の源頼隆の参陣になります。
梶原景時という男
和田義盛と北条義時が上総広常を説得に行く場にきていた大庭景親の使者は梶原景時(演:中村獅童)でした。
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もちろんこれは創作なんですけど、ここで景時を出したことで、義時に視聴者の疑問を代弁させています。
景時が石橋山でなぜ頼朝を見逃したか
景時はこう答えています。
あの時、大庭勢は目と鼻の先にいた。にもかかわらず、ワシの他は誰も頼朝殿には気づかない。そなたは、かのお人が天に守られていると申した。ワシも同じことを感じた。殺しては神罰を受けると思った。答えになっておるかな?
この頃、多くの東国武士が頼朝に味方する動機として、父・義朝の縁を考慮しない場合、源氏という貴種の生まれであることがあると私は考えています。
清和天皇の末裔であり、東国武士の棟梁として威厳と実力を持っていた源頼義の血統。まさに高貴な血筋と言える存在です。その存在であるからこそ「天に守られている」というのも信憑性があると思います。
しかし梶原景時は、大庭景親と同族(鎌倉氏)です。
いくら天に守られている人であっても、同族の人間を討つことは憚られます。
したがって大庭景親が討たれれば話は別なのでしょう。
まぁ、都合がいいと言われそうですが、血族だけで繋がってる場合はそんなもんです。
頼朝を救ったのは三浦義澄
今回、頼朝は浮気心を出してそばに置いた亀(演:江口のりこ)と一夜を共にしたところ、長狭常伴(演:黒澤光司)に襲われて命拾いするシーンがでてきます。
この時、亀がいたのかどうかはともかく、長狭常伴が頼朝を襲ったというのは史実通りです。
長狭常伴は、当時安房国長狭郡(千葉県鴨川市一帯)を支配していた武士で、安房国の平氏勢力の代表みたいなポジションでした。
そして上総広常が常伴が頼朝を襲うことを知っていたのは、常伴の妻が広常の兄である伊西常景(上総国夷隅郡伊北庄の領主)の娘だったからでしょう。
そして常伴はドラマでは三浦義村(演:山本耕史)に討ち取られますが、「吾妻鏡」ではこれは三浦義澄が討ち取っています。
これも前述の義時同様、義村に見せ場を作るための演出でしょうね。そうでなければ常伴は若干12-13歳の小冠者に討たれたことになります。あまりにも哀れです。
阿野全成という坊主について
今回初登場の新キャラは、あの阿野全成(あの ぜんじょう)ですね。
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阿野全成は源義朝の七男ですので、頼朝の異母弟であり、九男である義経の実母兄です。幼名を「今若」と言いました。
母、常盤御前についての記述が少ないので、はっきりとした経緯がわからないのですが、平治の乱で義朝が敗退したのち、今若は醍醐寺(真言宗醍醐派の総本山)で出家して「全成」となり、弟・乙若は園城寺(天台寺門宗の総本山)で出家して「義円(ぎえん)」となっています。
この流れだと、さらに下の弟・牛若が鞍馬寺で出家する流れになっていたのは当然かもしれませんね。
全成はこの時、27歳のはずです。
以仁王の令旨の話をどこで知ったのかはわかりませんが、その頃に醍醐寺を抜け出して修行僧に化けて東国に向かいました。
その途中、偶然、石橋山の戦いから逃げていた佐々木四兄弟と知り合い、佐々木兄弟の祖父である渋谷重国の領地・相模国高座郡渋谷荘(神奈川県藤沢市一帯)に匿われていました。
10月1日、下総鷺沼で宿営していた頼朝の元に、佐々木兄弟が帰参し、その時に兄・頼朝と対面を果たすことになります。
この人に限っては、義円や義経と違って、基本的に僧侶の身分から外れたことはせず、軍事的な活動は一切ありません。兄弟対面後も頼朝より寺を与えられ、政子の妹(たぶん実衣)と結婚し、駿河国阿野荘の領主となります。
その後は不幸の連続しかないので、このあたりで止めておきます(謎)。
ちなみに全成が唱えていた
「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前」
は九字護身法と言って、修験者が使うものです。
その後に言っていた
「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」
とは「急ぎ律令のごとく執行せよ」とのことで、これも中国の道教や陰陽師が使う呪文です。
醍醐寺に20年間何をしていたのか知りませんが、断じて、真言密教の坊主がつかうものではありません。
(そうだと言ってる人は『孔雀王』の読みすぎだと思います)
そもそも「九字」は除災と護身に効能があり、風を巻き起こす作用は一切ありませんので。
仁田忠常について
いつかは触れておこうと思いながらも、あまり活躍の場がなかったので流していたのですが、今回、多少見せ場がありましたので、仁田忠常(にった ただつね)にも触れておきます。
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割と最初の方からでており、「脳筋」的な位置づけかと思いきや、宗時が北条館に取りに行った仏像を代わりにもってきたりとか、政子に石橋山の敗戦や頼朝の無事を伝えるなど、割と重要な役割を務めていました。
ただ、政子に無事を伝えたのは「吾妻鏡」によれば、土肥遠平(土肥実平の嫡男/小早川氏の祖)なので、ドラマの中では今後も土肥遠平の役割の一部を今後も担うのかも……ですね。
忠常は元々は伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町仁田)の出身で、その地を名字に取っているところを見ると、仁田郷に領地をもっていたと思われます。
主人に対して非常に忠実な人間で、要所要所で頼朝の役に立っており、頼朝が信をおける数少ない人物の一人でした。
その実直さは頼朝亡き後、鎌倉幕府二代将軍・源頼家になってもかわらず、頼家の嫡男・一幡の傅役を命じられています。
しかし、時代の流れには逆らえず、ある事件をキッカケに彼はついに将軍ではなく、北条氏に与することを余儀なくされます。
その結果、将軍・頼家より「時政を討て」と命じられ、将軍と北条の板挟みになってしまい悲劇的な最期を遂げることになってしまうのです。
そのポジションにこんな笑顔のいい人をキャステイングするとは……三谷幸喜おそるべしです。
さて、そろそろ13人が揃いそうな気配ですね。