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承久の乱後のみんな
2022年12月18日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』最終回「報いの時」が放送されました。
承久の乱が前半でアッサリ片付けられ、後半、義時がどのように死ぬのかにいろいろな憶測が飛び交いました。
最終的には、のえが一服盛った毒薬の影響で義時の寿命は縮められ、なおまだ「鎌倉のため」に人を殺め(仲恭天皇の殺害)ようとすることを良しとしない政子によって薬を捨てられ、そのまま薨るという、前代未聞の最期でした。
承久の乱のこととか義時の最後のこととか他のブログや動画で散々語られているので、今回は、歴史上の承久の乱の補足を少しと、登場人物のその後について語っていきたいと思います。
出陣までの道のり
政子の熱い演説で御家人の士気が高まり、そのままの勢いで鎌倉が勝ったかのように見える承久の乱ですが、ドラマで描かれた通り、多くの御家人は日和見でした。
政子の演説が行われた5月19日の夕刻、義時の主だった者が屋敷に集まって作戦会議となりました。集まったメンツは
北条義時(演:小栗旬/陸奥守/幕府執権)
北条時房(演:瀬戸康史/相模守/政所別当)
北条泰時(演:坂口健太郎/武蔵守/侍所別当)
大江広元(演:栗原英雄/前大膳大夫/前政所別当)
三浦義村(演:山本耕史/前駿河守/侍所執事)
安達景盛(演:新名基浩/秋田城介)
ここでの武官の意見の多くは「足柄峠と箱根山の道に関所(砦?)を構築して迎え撃つべき」というものでした。
しかし、ここでこの場の唯一の文官である大江広元が異を唱えます。
「関所を固めて守りに徹するのもそれも一つの方法。否定はしません。しかし、東国武士が一致団結して守りを固めても、長い期間になれば士気が下がります。そうなると、密かに上皇方に味方する者もでてこないとも限りません。ここは運を天に任せ、一刻も早くを京へ向けて軍勢を進発させることこそ肝要でしょう」
この時点で鎌倉は義時追討の軍勢が京を発したという情報は掴んでいませんでした。もし軍勢が進発していないなら、先に攻めかかった方に勢いの利があります。
前のエントリーでも書きましたが、御家人にとって朝廷や院は畏怖の存在です。自分達に位階を授け、その支配を承認してくれるこの国唯一の最高機関です。
その朝廷や院と揉めたくない、しかし御恩と奉公で結ばれている御家人の主君は鎌倉殿で、鎌倉殿の命令があれば出陣しないわけにはいきません。
政子の演説は演説として、いまだに鎌倉から軍勢が進発していないこの状況は広元にとって不安でしかなかったのかもしれません。
義時は「関所を守って防戦」「京に攻め込む」2つの案を持って尼将軍政子に伝えました。政子の決断は
「軍勢を京都に派遣しなければ勝てるわけないでしょ!安保実光(80歳の老勇士)を筆頭にまずは武蔵国の軍勢を速やかに京都へ派遣しなさい!」
でした。義時はすぐに京都へ出陣する命令書を作って、遠江、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽などに飛ばしました。内容は以下の通りです。
京から関東へ攻め込んでくるという情報があるので、北条時房と北条泰時に軍勢を引き連れて出発させることにした。
さらに北条朝時を大将に北陸周りでも軍勢を出す。この内容を早く一族の人々に伝えて、合流しろ
そもそも最初の「義時追討」が完全に消され、京都が鎌倉を攻め滅ぼす話にすり替わっています。実際、押松をとっ捕まえて院宣の拡散を抑えているので、各国の御家人にとっては詳しいことが全くわからず
「いったい何が起きてんの?」
という状況ですが、軍勢率いて出発しろと言われれば一目散に駆けつけなければなりません。
一条頼氏の京都脱出と鎌倉への逃亡
5月20日、頼朝の妹婿である一条能保の孫・一条頼氏が京都から脱出し、鎌倉に逃げてきて政子の屋敷を訪れました。頼氏の妻はトキューサの娘で、北条氏の縁者として捕らえられるところを逃げ出してきたようです。
この頼氏のおかげで、鎌倉側は京で何が起こっているのかがある程度把握することができました。
「先月から京都の街中は不穏な状況でした。14日の晩になって院は源親広(大江親広/大江広元嫡男)をお呼びになりました。又、西園寺公経親子を幽閉しました。
15日の朝に、朝廷軍が集まり、高陽院殿(里内裏)の門を警備しました。凡そ、1700騎ぐらいと聞いています。順徳院ならびに土御門院、六条宮(雅成親王)、冷泉宮(頼仁新王)がそれぞれ密かに高陽院殿へ入られました。
同じ日、大内惟信(源氏門葉/平賀朝雅の甥)、佐々木広綱(近江佐々木氏/佐々木定綱嫡男)、三浦胤義(義村の弟)、佐々木高重(広綱の従兄弟)等が、後鳥羽上皇の命令によって800騎の朝廷軍を率い、伊賀光季の高辻京極の屋敷を襲撃しました。
突然の襲撃に驚いた光季とその息子・光綱は自殺をして宿舎に火を付けました。南風が激しく吹き、その火が数十町に広がりました」
またしても揺れる御家人、そして揺れる政子
頼氏の報告を受けて、同日、再度、緊急会議が行われました。
御家人たちの間で
「京に攻め上ることが本当にいいのか?」
「他にも何か方法があるんじゃないのか?」
などの声が上がってきたからです。
当時の御家人がいかに朝廷や院を恐れていた(神罰を恐れていたのかもしれませんが)かがよくわかります。
ここで、また大江広元が意見を言いました。
「京へ攻め上ると決めてから、時間が経てばそういう意見もでてきます。武蔵国の軍勢の到着を待っているのはまずい。時間が経てばますます気が変わる御家人が増えるかもしれません。ここは泰時どのが一人でも出陣すれば、他の御家人は悉く雲の龍のごとく従うでしょう」
広元の案は、御家人たちに考える時間を与えてはならないという意味だと解釈しています。下手に考える時間を与えることは不安と恐怖を与えるだけだと考えたのでしょう。それよりは、とにかく北条の身内の者が我先にと出陣することで、周りの御家人も「急がねば!」と脊髄反射で反応するのではないか、広元はそう考えたのではないかと。
しかし、もっと迷っている人がいました。
京に攻め上れと決裁した張本人・尼将軍政子です(苦笑)。
政子は病がちで評議にも参加していなかった三善康信(屑入道善信)をわざわざ呼び出して考えを聞きました。康信はこう言いました。
「関東が生きるか死ぬかは、この時にかかっております。意見を協議することは当然のこと。しかし、今は一時も早く軍を京都へ出発させること願いまする。日を置くと士気も下がります。どなたか大将軍一人でも、まず出撃するべきです」
このことを政子より聞いた義時は
「二人の意見が一致したことは神の啓示に違いない。早速、泰時を出撃させよう」
と決意しました。
ここにようやく、京都への出撃が正式に決まったのです。
泰時の出撃
5月22日、泰時が18騎で京へ向けて出撃しました。
その後、トキューサ、足利義氏、三浦泰村などが追随しました。
また朝時は北陸軍の大将として同日出発しています。
22日から25日までの4日間のうち、東国の主だった御家人は皆、出陣したようです。義時の記録によれば総勢19万騎。
東海道大将軍(10万騎)
北条時房(トキューサ/義時弟/政所別当)
北条泰時(義時嫡男/侍所別当)
北条時氏(泰時嫡男)
足利義氏(源姓足利氏当主/源氏門葉)
三浦義村(相模三浦氏当主)
千葉胤綱(下総千葉氏当主)
東山道大将軍(5万騎)
武田信光(甲斐武田氏当主)
小笠原長清(武田氏庶流)
小山朝長(下野小山氏・小山朝政嫡男)
結城朝光(小山氏庶流/結城氏の祖)
北陸道大将軍(4万騎)
北条朝時(義時次男)
結城朝広(結城朝光嫡男)
佐々木信実(佐々木盛綱の嫡男/加地氏・揚北衆の祖)
後鳥羽院、鎌倉の挙兵を知る
6月1日、鎌倉に捕らえられていた押松(演:矢柴俊博)が京へ戻ってきました。後鳥羽上皇は鎌倉の状況を押松に尋ね、押松は義時に言い含められた通り、下記の返答で答えたそうです。
東山道、東海道、北陸道、三つの道より19万騎の若い東国武士を上洛させます。西国の武士をお召しになって、合戦をさせて、それを御簾の隙よりご覧になってくださいませ
この内容はドラマでも描かれていましたね。
これを受けて6月3日、後鳥羽院は京側の武士に迎撃の体制を取るように指示します。
承久の乱の戦いの流れと京側の動き
6月5日、東海道軍の泰時とトキューサは軍議を開き、軍を多方面に分けました。同日、東山道軍が朝廷軍を戦闘になり、勝利しております。
6月6日、木曽川流域の摩免戸で朝廷軍と戦闘。東海道軍の勝利。
6月7日、東海道軍と東山道軍が垂井(岐阜県不破郡垂井町)にて合流。
ここで三浦義村が「北陸道軍が京に入る前に我らが先に入るべき」と意見し、軍勢の配置を提言、それを泰時が承認しています。
瀬田方面:北条時房
手上方面:安達景盛、武田信光
宇治方面:北条泰時
芋洗方面:毛利季光(大江広元四男)
淀方面:結城朝光、三浦義村
6月8日、摩免戸の戦いで敗れた藤原秀康らが京都に帰って敗北を院に報告すすると、御所内が大騒ぎになったそうです。
後鳥羽、順徳、土御門の三上皇と六条宮、冷泉宮は馬に乗って押小路河原(京都市中京区川原町)の尊長法印の屋敷に入り、軍議が始まりました。
結論として、。時の天皇である仲恭天皇と一部の公卿は三種の神器を持って比叡山に避難することにしました。
6月9日、後鳥羽上皇は近江坂本(滋賀県大津市坂本)に入り、比叡山の僧兵を激励しています。この日、出どころは不明ですが、義時死亡の一報(虚報)が朝廷側に入りました。
6月10日、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇と仲恭天皇は高陽院に戻りました。義時死亡の報を受けて安堵したものと思われます。
6月13日、足利義氏と三浦義村が(泰時の許可なく)宇治橋で戦闘を行い、24人が死傷しました。鎌倉軍の最初の敗北とも言える戦いでした。
6月14日、幕府と朝廷軍の最後の激戦である宇治川の戦いが開かれました。鎌倉側は100近い兵を失いながらも宇治川の渡河に成功し、それに戦意を失った朝廷軍は撤退。鎌倉軍はそのまま京になだれ込みます。
6月15日、小規国宗が後鳥羽上皇の使者として泰時に面会しました。その院宣は
「今度の合戦は上皇の考えで起こったものではなく、近臣達が勝手に云いだしたものだ。よってその者ども駆逐した以上、望み通りの院宣を出す。それと京で、乱暴狼藉をさせないよう、鎌倉軍に命令せよ」
というものでした。ドラマの中で上皇がトキューサに口頭で伝えた内容ですね。虫がいいにもほどがあるというか……..
6月16日、トキューサと泰時は六波羅に入り、戦いは終わったことを鎌倉に伝令しました。承久の乱はここに終わったのです。
この伝令は6月23日に鎌倉に到着しました。
承久の乱の裁き
6月23日の泰時の伝令が鎌倉に到着すると、義時は関係者の処罰の内容をまとめ、翌日24日、安東光成に託して京都に遣わしました。
6月29日、光成は京都に到着し、トキューサと時房は義時の命令書を受領しました。そして三浦義村、毛利季光と協議しています。
7月1日、朝廷より乱に加担した公卿に判決を下せと命令が出たので、鎌倉に送る準備に入りました。
7月2日、西面の武士(院警護武士)である後藤基清、平有範、佐々木広綱、大江能範の4人が斬首されました。
7月5日、一条能保の次男で後鳥羽に味方した公卿・一条信能が美濃国で斬首されました。
7月6日、後鳥羽上皇は鳥羽殿に移り、翌日出家させられました。
7月12日、義時追討の院宣を書いた葉室光親が、鎌倉に送られる途中、駿河国籠坂峠で殺害されました。
7月13日、後鳥羽上皇が隠岐国に向けて移動を開始しました。27日に出雲に入り、8月5日に隠岐島に到着されました。
7月20日、順徳上皇が佐渡国に移ります。
7月24日、六条宮(雅成親王)が但馬国に移ります。
7月25日、冷泉宮(頼仁親王)が備前国に移ります。
10月16日、逃亡していた藤原秀康と藤原秀澄が逮捕されました。
閏10月10日、土御門上皇が土佐国に移ります。
天皇家の行く末
承久の乱は、追討される側が、追討する側に勝ってしまった日本史上稀有な例です。
鎌倉は乱の首謀者である後鳥羽、順徳の両上皇を流罪にしました。そしてその順徳の血統である、当年4歳の仲恭天皇も無事で済むはずがありません。
しかし、仲恭天皇は鎌倉殿である三寅の従兄弟でもあったため、軽い処分で済むのではないかとも想定されていました。
しかし、鎌倉は仲恭天皇を廃位にします。
仲恭天皇は四歳ですので皇后がおらず、皇子も親王もいません。
かといって、後鳥羽の血統である六条宮、冷泉宮の即位もあり得ません。
そこで鎌倉は驚くべき方策を取りました。
後鳥羽の同母兄にあたる守貞親王の子・茂仁王に目をつけたのです。
守貞親王とは、高倉天皇の第二皇子で安徳天皇の弟になります。
源平合戦の時に平家に「皇太子」として拉致られた不幸な親王です。壇ノ浦から生きて戻ってきた時には、すでに弟の後鳥羽が即位していたため、皇位継承者から外されていました。
鎌倉がここで皇位継承者を選ぶためのポイントは「皇位を継げる」資格を有することと、「治天の君」を担える父親がいるかどうかの2つだと思われます。
守貞親王には異母弟に惟明親王という存在がおり、承久の乱の前年に死去していますが、惟明親王には国尊王という子供がいました。
この国尊王も皇位継承候補でしたが、治天の君になれる父はすでに死去していたため、候補から外れたのです。
とはいえ、守貞親王は皇位についた経験がありません。そこで鎌倉は守貞親王に太上天皇号を奉って、法皇として治天の君に就いてもらうというアクロバットな院政を開始させました。
これが後高倉院です。
7月9日、仲恭天皇は茂仁王に皇位を譲りました。
茂仁王は即位して御堀河天皇となりました。
この御堀河天皇は1232年(貞永元年)に2歳の秀仁親王に譲位します。
秀仁親王は四条天皇となりますが、この方が12歳で亡くなってしまいます。
四条天皇の兄弟はいませんし、父・御堀河の兄弟も全員出家していますので、またしても皇位を継ぐ者がいなくなってしまったのです。
ここで鎌倉は再び後鳥羽の血統から皇位継承者を選ばざる得なくなります。
九条道家らの公家勢力は順徳上皇の子・忠成王を推挙しました。
しかし、九条家に反発していた村上源氏の土御門定通は、土御門上皇の子・邦仁王を推挙しました。
時の執権・泰時は、承久の乱時に消極的な姿勢であって、自発的に流罪になった土御門上皇の子・邦仁王を皇位継承者に選び、鶴岡八幡宮の神託をその大義名分にします。
これが後嵯峨天皇です。
これで承久の乱から生じる皇位のいざこざは一旦収束しますが、今度は皇統そのものが分裂する「両統迭立」がおき、それが南北朝につながるので、やっぱり承久の乱の波及効果はすごいなと思います。
六波羅探題の創設
鎌倉の出先機関として、在京御家人の統率、洛中の警護・裁判を主目的として朝廷と幕府の間の連絡調整を行っていた「京都守護」がありました。
承久の乱後は、京に関することだけでなく、没収した後鳥羽院の所領への地頭設置による諸問題の解決、西国の御家人を統率、さらに朝廷の動きを監視する「六波羅探題」が設置されます。
六波羅探題は北方、南方の南北に設置され、北方の初代探題が泰時、南方の初代探題が時房となりました。
鎌倉殿の登場人物のその後
最後に、最終回に出てきた方々のその後はどうなるのかを触れて締めたいと思います。
北条政子
政子は義時が亡くなった翌年、すなわち1225年(嘉禄元年)7月11日に亡くなります。69歳でした。
義時死後、義時の正室だった伊賀の方が、息子政村の執権就任を目論んで「伊賀氏の変」を起こし、政子がそれを調停したと言われていますが、事実関係があやふやなので、なんとも言えません。
大江広元
義時と共に幕政を指導していた広元ですが、承久の乱で嫡男の親広が上皇方についたことから、乱後も権勢を維持できていたかはわかりません。
広元は政子が亡くなる1ヶ月前、1225年(嘉禄元年)6月10日に亡くなります。78歳でした。
大江氏の家督は次男・時広が継ぎ、出羽国長井荘を本貫地とする長井氏の祖となります。
また今回のこのエントリーで名前の出てきた四男の毛利季光は、法治合戦で三浦氏と運命を共にしますが、季光の四男・経光が安芸国吉田荘を継承して、毛利氏の祖になります。
三善康信(テテテのおじさん)
問注所執事ですね。いつも余計なことを言って義時に睨まれていた可哀想な人です。
承久の乱の時は重病の床に伏していましたが、前述の通り、一刻も早く京に攻め込むべきだと政子に進言し、鎌倉の勝利に大きな貢献を果たしました。
乱後、同年8月そのまま亡くなっています。
三浦義村
義時亡き後、義村は「伊賀氏の変」に関わったという記録があります。しかし政子の説得で烏帽子子である政村擁立を諦めたと言われますが、真相はわかりません。
三代執権・泰時の時代になり、1225年(嘉禄元年)12月に評定衆が制度化されると義村もその一人となり、死ぬまで評定衆を務めています。
1239年(延応元年)12月5日 中風(脳卒中)で死去。
鎌倉幕府創設期の御家人としては珍しく天寿を全うしていますね。
義村の嫡男・泰村とその弟・光村の時代に法治合戦が起き、三浦氏は滅亡します。これを北条氏による三浦氏潰しという話もありますが、これは執権北条氏の外戚の地位を巡っての争いです。すなわち安達氏VS三浦氏の戦いだと私は思っています。
北条泰時
義時死後、政子によって三代執権の座につくものの、翌年、広元、政子という幕府創設時の二大巨頭を失います。
それを補うため、六波羅探題として出向していたトキューサを鎌倉に呼び戻して連署(執権補佐&代行)に就任させます。さらに集団合議制に移行し評定衆を制度化しました。
1332年(貞永元年)8月、全51箇条の史上初の武家法典「御成敗式目(貞永式目)」を制定。それまで成文法が存在していなかった鎌倉に初めて「やっていいこと、いけないこと」が定められました。
ちなみにこの御成敗式目は鎌倉幕府滅亡後、足利幕府や江戸幕府においても有効とされています。すなわち、建武式目や武家諸法度は御成敗式目を前提とした追加法という認識だったわけですね。
北条得宗家の幕府支配を確立させた功労者であることは間違いないのですが、嫡男の時氏に先立たれたり、時実を殺されたり、家族運にはあまり恵まれなかったと言われます。
北条時房
義時の弟・五郎。このドラマではトキューサですね。泰時が執権となった後、政子、広元の逝去にともなう幕閣人材の補強として「連署」に就任しました。
時房は四男・朝直が泰時の娘を妻にした関係で泰時に重宝され、朝直を祖とする大仏流北条氏が時房流の嫡流となって大成します。
大仏流北条氏からは三代当主の北条宗宣が鎌倉幕府11代執権になっています。
北条朝時
泰時の弟・次郎ですね。正室・姫の前の子であり、比企氏の所領を多く継承しています。時政より名越邸を譲られていることから、彼の血統は名越流北条氏と言われます。
名越流北条氏は高い家格を保持しますが、得宗家(北条宗家)と敵対することも多く、そのため得宗家からの粛清を数回受ける羽目になります。
最後の締め
ここまで「鎌倉殿の13人」の放送回を題材にいろんなエントリーを書いてきました。来年の「どうする家康」も続けていこうと思いますので、お楽しみください。1年間ありがとうございました。