見出し画像

第4話「肥後国平定」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

「二階崩れの変」によって大友氏の家督を相続した大友義鎮は、弟・晴英を周防、長門(山口県)の戦国大名・大内氏の当主に送り込むことに成功し、自分の領国である豊後(大分県南部)、筑後(福岡県南部)に加え、筑前(福岡県北部)の貿易都市・博多の権益を確保しました。

義鎮の次の仕事は、隣国である肥後の完全攻略でした。大友家はすでに足利将軍家より肥後国守護職に補任されていましたが、肥後国は戦国大名・菊池氏が実効支配しており、そことは浅からぬ因縁があったのです。

菊池氏とは

菊池氏は、平安時代の荘園開発ラッシュ(平たく言えば「土地バブル」)の際、荘園を守る武士として肥後国の歴史に名前が見える一族です。

菊池氏は非常に勤王精神が高く、西暦1221年(承久三年)の後鳥羽上皇のクーデター事件(承久の変)や西暦1333年(元弘三年)の後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕事件(元弘の変)でも朝廷に味方しており、南北朝時代を通じて南朝の有力武将として九州に一大勢力を築いていました。

しかしながら、戦国時代においては、若い当主が続いて周辺勢力(阿蘇神社の大宮司・阿蘇氏など)に押されることが多く、菊池氏の家運は著しく衰退しており、戦国大名としての自主性は殆どなくなっていました(それでも当時は肥後国守護職の家ではありました)。

結果として、大友氏19代当主・大友義長(義鎮の祖父)の介入によって、義長の次男である大友重治が菊池氏に養子入れし「菊池義武」と名を改めさせて菊池氏の当主に据えました。従って、この人は大友家現当主である義鎮の叔父にあたるわけです。

菊池義武の造反

大友義長が次男・重治(菊池義武)を菊池氏に養子入れにしたのは、菊池氏と縁繋ぎになることで名族・菊池氏を傀儡化し、筑後、肥後国に大友家の影響力を浸透させるのが目的でした。

ところが、この義武という人は、大友家の家督を継いだ実の兄である義鑑(義鎮の父)に対し、極めて非協力的でした。その結果、西暦1534年(篆文三年)、周防長門の大内氏や肥後南部の相良氏と勝手に同盟を結んで、大友氏から独立してしまうのです。

この義武の造反の理由はよくわかっていません。が、親の言いつけで菊池氏を継され、父が死んだ後は家督を継いだ兄の言いなりに不満を持っていて、それが爆発したのかもしれません。

ただ、義鑑からすれば、

「おいおい、お前が独立しちゃったら、筑後と肥後の国人領主たちが俺のいうこと聞かねーじゃん。どうしてくれんのよ」

ということになります。
しかも造反したのが家臣ならともかく、実の弟ときては、大友家家中で義鑑の面子は丸つぶれでした。

義鑑はこの造反を認めず、大友家から菊池家へ送り込んでいた家臣たちに決起を促し、筑後からも軍勢を派遣して義武を攻めました。

西暦1534年(天文三年)、結果として義武は義鑑に敗北し、居城である隈本城(現:熊本城)を失い、肥後南部の人吉城主・相良晴広を頼って落ち延びていました。

また、義鑑はこの時、足利幕府に肥後国守護職を請い願い、西暦1543年(篆文十二年)、肥後国守護職に補任されています。ここに大友氏の豊後、筑後、肥後の三国の守護職が成立するのです。

「二階崩れの変」によるリベンジ

西暦1550年(天文十九年) 大友家のお家騒動「二階崩れの変」が起き、義武の兄・義鑑が亡くなりました。

これを知った義武は

「チャーンス♪」

と小躍りして、失った菊池氏の旧領回復を狙って再び行動を開始します。
さすが転んでもタダでは起きません。

まず、義武は人吉城主・相良晴広の助力を要請し、菊池氏の本城である隈本城の奪還に成功。「二階崩れの変」の影響で混乱していた肥後国内の国人領主をまとめあげて自分の支持を基盤を確立し、あっと言う間に力技で肥後一国を実効支配してしまいます。この行動力は本当にすごいです。

しかし、自体は義武の想像以上のスピードで進行していました。

「二階崩れの変」の後、名実共に大友家の家督を相続した義鎮は、大友家臣団をまとめあげ、速やかに傅役の入田親誠を誅殺すると、次は義武によって独立国家と化した肥後国に矛先が向けられました。

まず、義鎮は、阿蘇神社大宮司・阿蘇惟豊(前述の入田親誠を保護して殺害した人)と連携して肥後国の国人領主の切り崩しを行った後、満を時して小原鑑元佐伯惟教に軍勢を与えて肥後国に攻め入らせます。

義武は肥後国の国人領主の支持を集めていましたが、国人領主たちは自分の領地を守るのが目的で、心の底から義武に忠誠を誓っているわけではありませんでした。つまり「強いものにつく」というのが彼らの行動原則でした。

また義武も「二階崩れの変」によって大友家中で権力闘争が起き、肥後にまでチョッカイを出してくる余裕はないだろうと読み、そこまでに地盤を固めるつもりでしたが、半年も経たないうちに討伐軍を送ってくること自体が予想外でした。

大友家の本体が攻め込んでくると聞いた国人領主たちは、次々と義武から離反していきます。義武は旧来の菊池家臣団も頼みとしていましたが、元々彼らは義武に臣従しておらず、助力のアテにするにはハードルが高すぎました。

同年7月11日、義武は合志原(熊本県合志市?)で大友軍を迎え撃ちましたが、国人領主の戦力を奪われた義武は、抵抗らしい抵抗も出来ず、敗北。

義武は隈本城に籠城しますが、これも包囲され、100騎ばかりを率いて金峰山(熊本市西区にある山。熊本県のテレビ送信所のある山)に脱出。そこから舟で島原へ逃亡してしまいます。

肥後国を完全支配

義鎮は、菊池義武の乱を平定すると、旧来の菊池氏三家老の1つである城親冬を隈本城主として置きました。

義武は島原に逃亡した後、再び肥後南部に戻り、人吉城主・相良晴広を頼りました。義武は晴広の保護を受け、永国寺(熊本県人吉市土手町5/通称:幽霊寺)で出家します。

義鎮はなんども晴広に義武の身柄引き渡しを求めましたが、晴広はこれを全部拒絶します。しかし義武が義鎮から「所領を与えるからと戻ってこい」という書状が届き、義武は自分の運命を覚悟して妻子を人吉に置いたまま、豊後に戻りました。

そこに待ち構えていたのは義鎮の命を受けた戸次鑑連の兵でした。

西暦1554年(天文二十三年)11月20日 肥後菊池氏当主、菊池義武 自害。

義武の死は、名実共に戦国大名としての菊池氏の滅亡でした。

そして義武の死を以て、義鎮は亡き父・義鑑が果たせなかった肥後国を完全に支配下に置き、守護職を拝している豊後、筑後、肥後の三か国を完全に領土とすることに成功したのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?