日本の内ゲバは鎌倉幕府から(9)-臨戦体制-
泉親衡の乱の後始末のゴタゴタは、北条義時により和田義盛への牽制に利用され、和田義盛の甥・和田胤長は陸奥国岩瀬に流罪、胤長の娘は病死、胤長の屋敷は北条義時に横領と、和田一族に立て続けに不幸が襲い掛かる結果になっていきました。
それでも、当主・義盛は隠忍自重を貫きますが、他の一族の者は北条義時に対する敵対心を募らせていきました。
和田朝盛の出家
和田義盛嫡男・和田常盛の子で和田朝盛(義盛から見れば嫡孫)という人がいました。将軍・源実朝の覚えがめでたく、将軍近習として仕えていたのですが、義盛が将軍御所への出仕を停止している間、朝盛も同様に出仕するわけにはいかず、謹慎せざる得ませんでした。
その謹慎の間、浄遍という僧と親しくなり、生死のこと、悟りのことなどを学んで、念仏修行にあけくれていました。やがて俗世のことが嫌になった朝盛は、西暦1213年(建暦三年)4月15日、家族には黙って出家してしまいます。
翌日16日、朝盛の出家は祖父である義盛の知るところになり、急いで朝盛の部屋に押し入ると一通の手紙が残されており、そこにはこう書かれてありました。
「我が一族と御上(実朝)との間に不穏な空気が漂っております。たとえ我が一族のためとはいえ、御上にお仕えする私が、御上への反逆計画を知り得たとしたら、私はどうすればいいのでしょう。一族に従えば御上に弓を向ける事はできません。かといって父や祖父に敵対する気もありません。よって、もう何もしない事でこの苦しい境地から逃げたいと思っております」
これを見た義盛は「そこまで思い詰めさせていたのか」と己を恥り、反省しつつも、四男・義直に命じて
「法体(僧形)のままでも構わん!連れ戻せ!」
と追手を差し向けました。これは朝盛が弓の名手だったからですが、いざ戦争になった際に、戦力として欠かすことのできない存在でもあるということを義盛がわかっていたからです。
上記の記述は「吾妻鏡」の中に見える部分なのですが、この時点で、和田一族の中に幕府への謀反の計画が練られていること、そして義盛もその時期に備えつつあることを伺い知ることができます。
同月18日、朝盛は義直に連れられて鎌倉に強制送還されました。
和田義盛の嘆き
同年4月24日、義盛は長年和田家で雇って祈祷僧を解雇しました。この僧は尊道房という名前の人らしいですが、あまりに突然のことのため、鎌倉の人々は不思議に思いました。
しかし、しばらく経つと、尊道房は解雇されたように見せかけて、実は義盛の密命を受けて伊勢神宮に祈祷に向ったらしいという噂が鎌倉に出回るようになりました。
おそらくこの噂の出所は、北条義時ではないかと思われます。「義盛が尊道房に依頼した祈祷の内容はたぶん謀反の成功だろう」というシナリオです。
こうなってくると、鎌倉全体が不穏な空気に包まれ、和田の謀反の計画は信憑性を帯びてきました。事は将軍実朝の耳にも入ってきたため、もはや見過ごせず、同年4月27日、実朝は義盛の屋敷に事の次第を糾す使者を送りました。
使者の名前は「吾妻鏡」には「宮内兵衛公氏」とあるのですが、これが誰のことなのか人物に関する記録がありません。が、実朝が使者を送った事は事実のようです。
「吾妻鏡」によると公氏は義盛の屋敷を訪ね、義盛と会談し、将軍の命令として和田一族の謀反の疑いについて尋ねています。それについて義盛はこう回答したと言われています。
「亡き鎌倉殿(頼朝)の時代、私は随分と手柄を立てた。それによって受けた褒美は今の自分の身分をはるかに越えるものだった。その鎌倉殿が亡くなってまだ20年も経たないのに、亡き鎌倉殿の御威光がこの鎌倉から全く無くなってしまった世の中を恨んでおる。色々と嘆げかわしいことが多くあるが、そのようなもの天には届かない。ただ、私の運の悪さを恥ずだけ。反逆の気持ちなんてない」
公氏は義盛の言を実朝に伝えようと御所に戻った所、御家人たちが慌ただしく動いているのを見ました。御家人に指示をしているのは義時です。公氏は義時に「これはどうしたことか」と尋ねると
「左衛門尉の謀反はほぼ確定的となりました。すぐに出陣する必要はありませんが、こっちもそれ相応の準備をしておかねばなりません」
と答えました。驚いた公氏は急ぎ将軍の元に行き、義盛の言と義時の戦争準備状況を実朝に伝えると、実朝は「ご苦労であった」とだけ言葉をかけて奥書院に引きこもってしまわれました。
将軍実朝最後の説得
その日の夜、刑部丞忠季(この人も何者かわからない)が実朝に召し出され、再び義盛への使者に立たされました。忠季は数人の供を連れて
忠季は言いました
「そなたに謀反の噂がある。御上は驚き、心を痛めておられる。いまからでも遅くはないから反乱を起こすのは止めて、御上のお裁きを待たれよ」
それを受けた義盛は言いました。
「御上の御心を悩ませたるはこの義盛の不得の致すところ、謹んでお詫び申し上げます。しかしながら、それは誤解にござる。御上へはなんの恨みもござりません」
「では、この物物しさはなんぞ。横山党(武蔵国七党の1つ)の古郡左衛門尉殿や安房の朝比奈三郎殿までが続々とこの屋敷に詰めているではないか」
「ああ、それは相州(義時)の当家に対するやり方が傍若無人なので、納得できる説明を求めて武装して行こうと、若い者達が談合しているだけです。私が何度も諫めているのですが、こんな老人の言うことはもう相手にされないようですな」
義盛は自嘲気味に笑いながら答えましたが、その目は笑っていませんでした。
「左衛門尉殿、そなたは和田一族の棟梁ぞ。一族の者をまとめる責任がある」
「お言葉ではございまするが、若い者はとかく決起にはやるもの。それを老骨が押さえ込む事はなかなか骨が折れまする。また、ここで押さえ込んでも不満は溜まりましょう。すべては相州が原因でござる。こうなっては致し方ないと存じまする」
義盛はそう言うと、手を床につけ
「どうぞ御上によしなにお伝えくださりますよう」
と言って頭を下げると
「誰かある!御上の使者のお帰りじゃ。丁重にお送りいたせ!」
と声を荒げると、数人の武装した武士が現れました。
これ以上の問答は不要という義盛の意思の現れでした。
忠季はその空気を読み取ると、何も言わず、立ち上がりました。そして和田の武士の先導を受け、将軍御所に戻ったのです。
忠季の言葉を聞いて、実朝がどう思ったのかは記録がないのでわかりませんが、「もう乱が起こるのは避けられぬ」と察したのではないでしょうか。
北条朝時の帰参
この頃の義時は「義盛の謀反は必ずある」という確信をもっていました。それは、自分自身が義盛のプライドを傷つけ、挑発するようなことを行っている以上、よくわかっていました。しかし、これは義時にとっては大きな博打でした。
「吾妻鏡」によると、実朝が刑部丞忠季を遣わして説得を行った翌日の28日には、大江広元の名前で下記の者たちに戦勝祈願の祈祷を行なわせています。
定豪(勝長寿院別当/真言宗):大威徳法(大威徳明王法)
忠快(天台宗権大僧都):不動法(不動明王護摩法)
浄遍(和田朝盛を出家させた僧):金剛童子法
安陪親職(将軍付陰陽師):天地災変祭
安陪泰貞(将軍付陰陽師):天曹地府祭
安陪宣賢(将軍付陰陽師):属星祭
ぶっちゃけ「ここまでやるのか?」という念の入れようですが、義時にとって和田一族との戦いはそれだけ重要であり、一族の運命をかけた決死の戦いだったのです。
さらに義時は29日、駿河国富士郡(現在の静岡県富士市、富士宮市)で蟄居させていた息子、北条朝時(ほうじょう ともとき)を鎌倉に呼び戻しています。
朝時は、義時の最初の正室・姫の前の間に生まれた子で、当初義時の嫡男として遇されていました。ところが彼は実朝の御台所(正室)・信子に仕える官女に恋をして、艶書(現代でいうところのラブレター)を送り自分の気持ちを伝えましたが、靡かなかったので深夜にその官女のいる部屋に侵入。誘い出したことを実朝に咎められました。
そして西暦1212年(建暦二年)5月7日、父・義時によって義絶(勘当)され、駿河国富士郡に追放されていたのです。これによって義時の嫡男は次男である泰時になりました。
この朝時が戻され、義時の陣に加わり、義時の武将の層はますます厚くなりました。義時は義盛との一戦に北条氏のすべての力を注入する覚悟だったのでしょう。
北条義時の懸念
なぜ、義時がそこまで和田一族を恐れるのか、それは和田氏が相模国三浦郡(葉山町)に勢力を張っている三浦氏の分家であることが原因でした。
三浦氏は一族を挙げて源頼朝の挙兵に早くから加わっており、石橋山の戦いで頼朝が敗れると当時は(平氏勢力であった)畠山重忠らに居城・衣笠城を落とされて、前当主であった三浦義明は戦死しました。
三浦氏当主・三浦義澄(義明次男)はその後も頼朝に味方し、鎌倉幕府創設後は宿老のポジションにつきました。そしてこの時の当主は義澄の子・義村になっています。
実は三浦義澄には義宗という兄がいました。兄は鎌倉郡杉本郷に居を構えて杉本城を築城したため杉本義宗と言いました。そしてこの義宗が三浦氏の家督を相続したのですが、若くして戦死したため、次男の義澄が三浦氏の家督を継ぎました。
そしてこの義宗の子が和田義盛です。父・義宗が亡くなった当時、義盛はわずか17歳だったため、三浦氏の家督を継ぐことができず、別家を立てました。よって和田氏は三浦氏の分家とはいえ、嫡流であることは間違いなく、そのため、義盛は三浦氏の長老格にあり、現当主である三浦義村も無碍にはできない存在だったのです。
義盛が挙兵すれば、三浦氏も義盛の味方することは義時には容易に想像がついていました。そして三浦氏には、大多和氏、長良氏、多々良氏という分家があり、一族で巨大な御家人軍団を擁していました。それらが一斉に北条氏に牙をむいてくるわけです。義時が神や仏にすがりたいのもわからなくありません。
しかし、武力衝突の時はもうすぐそこまで来ていました。