義時の決断・政子の決断そして泰時の決意
2022年12月11日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第47回「ある朝敵、ある演説」が放送されました。
ついに後鳥羽上皇(演:尾上松也)が北条義時(演:小栗旬)を朝敵として追討し、鎌倉の御家人がそれを迎え撃つ体制が整うところまでを描いています。
朝敵とされた義時が自ら進んで首を差し出そうとする演出には正直驚きました。しかし、これまでの義時の行動原理が「鎌倉のため」であるならば、鎌倉政権を認めている朝廷の「その首を差し出せ」という要求に、従おうとするのは義時の論理としては筋が通っています。
逆にこれまで朝廷や院と争うようなことをしてはならないと主張していた北条泰時(演:坂口健太郎)が「戦いましょう!」という「お前、先週まで言っていたことと違うやんけ」というブレっぷり。
そして政子は、鎌倉のために殉じようとした義時を守るために、鎌倉の持てる戦闘力を全部上皇にぶつけて、本当の坂東武者の国を作る宣言を行います。
私が学校で習った承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒して朝廷と院の日本国統一支配を図ったが、幕府よって逆に潰された事件でした。
ただ、このドラマの時代考証でも入られてる坂井孝一先生の『承久の乱』を読むと、後鳥羽が挙兵する理由も、そしてその目的もすべて腹落ちする内容でした。
坂井先生の本で一番驚いたのは、後鳥羽が追討したのは幕府ではなく、義時個人だったことです。つまり当時まだ3歳の鎌倉殿・三寅(後の藤原頼経)や尼将軍として君臨していた従二位・政子でもなかった。つまり幕府を潰すつもりはなかったことでした。
この部分が学校で教わった歴史と完全に違いました。
それでは振り返り行きます。
源頼茂の挙兵
最終回直前にもかかわらず、ここでまた突然ニューキャラクターが登場します。源頼茂(みなもと よりもち)です。
いきなり出てきて、いきなり京で挙兵していて、しかも2シーン目で「もはやーこれまでー!」とか叫んでるので、視聴者には「誰やお前?」と言われても仕方ありません。
かつて、治承・寿永の乱と呼ばれる戦いがありました。いわゆる源平合戦です。そのキッカケとなったのは「以仁王の令旨」でした。
その令旨が諸国の源氏に送られたことを受けて、源 頼朝(演:大泉洋)や源 義仲(演:青木崇高)が決起したわけですが、その手筈を整えたのが源 頼政(演:品川徹)です。
この源 頼茂は、その頼政の孫にあたります。
頼政の血統は摂津源氏と呼ばれ、朝廷や摂関家に近く、内裏守護の任を代々受け継いでいました。それは頼茂の代でも同じで、内裏守護人でありながら在京御家人としても活動していて、一時期、幕府政所別当の職にもありました。
『愚管抄』によると、その頼茂は鎌倉幕府四代将軍(鎌倉殿)の座を望んでいたらしいのですが、実朝の後継に三寅にが決まったことで謀反を企んだようです。で、在京武士がそのことを後鳥羽上皇に申し上げて、上皇が招聘したところ、応じず挙兵に及んだとのこと。
1219年(承久元年)7月13日、上皇の命令を受けた兵が大内裏に向かい、内裏内の「昭陽舎」に籠る頼茂を攻めたところ、頼茂は代理に篭り、仁寿殿に火をかけて自害します。
これだけならともかく、内裏の中に収められていた数々の宝物まで灰燼に帰してしまったのです。
坂井先生によれば、この時もショックで後鳥羽は1ヶ月近く寝込むことになったといいます。そして、この時、ドラマの中で卿二位局・藤原兼子(演:シルビア・グラブ)が言った言葉
これこそが承久の乱の始まりだったのではないかと思います。
この報告は乱が鎮圧された後の7月25日、京都守護の伊賀光季(義時義兄/「のえ」の兄)によって鎌倉に報告されました。
北条重時、表舞台に立つ
同年7月28日、将軍などの身の回りの世話や宿直などを務める小侍所の別当(長官)に陸奥三郎、すなわち北条重時が任じられました。当時22歳だそうです。
重時は義時の三男です。彼はこれ以後、三代執権・泰時の時代に六波羅探題北方を長く勤め、五代執権・時頼の時代には、二代目連署となって幕府を支えます。
大内裏再建と鎌倉の事情
同年8月4日、上皇は臨時の除目を行い、北面武士である藤原秀康(演:星智也)を北陸道・山陽道の諸国の国務に任ずることを命じました。
前述の坂井先生によれば、『承久記』の「慈光寺本」には、卿二位藤原兼子が
と述べたと記録されているようです。では、この二国の坂東の地頭とは誰か。坂井先生は「越後守護は北条義時、加賀守護は北条朝時の可能性が高い」と述べられ、その上で地頭に対する影響力(すなわち徴税拒否)を行使したのではないかとのこと。あり得る話です。
ドラマでは上皇が諸国の御家人のから徴税を行うことを明言し、鎌倉では政子がそれを保留することを決定します。
火事というか災害に関しては『吾妻鏡』に9月8日伊豆熱海走湯山の本堂と講堂が焼失。9月22日鎌倉で前代未聞の大火事が発生とありますのでまんざら虚構というわけでもなさそうです。
後鳥羽の御家人調略
ドラマでは後鳥羽は御家人に大内裏造営費用を負担させ、義時が応じないことを見越して、御家人と義時の間を割こうと企みます。
御家人としては朝廷は位階を与えてくださる公の存在であり、敵対したくないという御家人の意見はもっともなものです。しかし幕府が応じるなと言われれば、御家人はそれにも従わねなりません。
そんな不穏な鎌倉の状況は、三浦義村(演:山本耕史)から大番役として京にいる三浦胤義(演:岸田タツヤ)を通じて「上皇様のお情けに縋ろうというものが大勢いる」という形で伝わります。これに対し、上皇は
これは鎌倉の御家人の地位を捨てさせて、院の北面ないし西面の武士として取り立てるということに他なりません。上皇は御家人たちの新しい主人として武士を統括しようという動きを表面的に出してきたのです。
二階堂行光の死
同年9月6日、政所執事を務めていた二階堂行光が病にかかり、政所執事を辞任しました。
行光は、二階堂行政(演:野仲イサオ)の孫で、政子の意を受けて実朝の後継将軍に親王を下向を要請する使者として京都にあがりました。結果としてこの交渉は失敗していますが、幕府の京都方面での外交担当として事務方の調整を数多くこなしていたようです。
後任の政所執事には伊賀光宗が任じられました。京都守護・伊賀光季の弟ですので、この人も二階堂行政の孫にあたり、義時の義理の兄になります。
9月8日、二階堂行光は亡くなりました。
承久二年(1220年)に起きたこと
ドラマでは、慈円僧正が追い出され、藤原秀康が流鏑馬を行う計画を上皇に申し上げてからいきなり三寅の着袴の儀になってますが、そこに至るまで約1年がすっぽ抜けているので、そこを超高速で振り返ってみます。
1月
12日 鎌倉で地震。
14日、時房の子、時村と資時が突然謎の出家。
23日、京で大内裏造営行事所発足。参議藤原公頼を行事参議、右中弁藤原頼資、右少弁藤原光俊を行事弁とする。
29日、鎌倉で火事。
2月
16日、鎌倉で火事。
26日、鎌倉で火事。
3月
9日、鎌倉で火事。
22日、大内裏造営事始(着工式)。
26日、京、清水寺本堂並びに塔・釈迦堂焼失。
4月
13日、京、祇園社、御殿並びに東面廊・南大門・薬師堂焼失。
27日、京、大内裏、陽明門、左近衛府、上東門左脇、斎院御所が焼失。
5月
特になし
6月
10日、左大臣九条道家の使者が鎌倉に到着。去年12月に彗星が現れた事について朝廷では祈祷をした。関東の天文方は見ていないということは怪しです。鶴岡八幡宮で祈祷しなさいとのこと
12日、道家の使者の件で幕府で会議あり。天文方が見ていないものを言われてもしょうがない、しかし道家公がうるさいから、とりあえず祈祷だけはやっとこうと大江広元(演:栗原英雄)が決定。
7月
30日、鎌倉で大雨に洪水。
8月
6日、伊予中将一条実雅に男子誕生。妻は義時の娘。
9月
25日、鎌倉で火事。
10月
11日、鎌倉で火事。
11月
23日、三寅の着袴の儀について、日取りの上申書と道具類が京都から到着。
三寅、着袴の儀
1220年(承久二年)12月1日、昼頃、三寅の着袴の儀が行われました。
『吾妻鏡』によれば出席者と役割と儀式の流れは以下の通り。
ちなみにこの月の8日、大内裏の再建が終了したことが同月20日の『吾妻鏡』に記されています。
仲恭天皇即位
このドラマでは当代の天皇がまるでいなかったかのように軽視されていますが、1221年(承久三年)3月20日、順徳天皇は懐成親王に譲位して、上皇となり、懐成親王は仲恭天皇となられました。
仲恭天皇は当時四歳だったそうです。
摂政は九条道家(三寅の父)が任じられました。
これは順徳天皇が父である後鳥羽上皇が進めている北条氏追討計画に本格的に参画するために行われた譲位と言われています。
承久の乱 勃発
ドラマの中で後鳥羽上皇は藤原秀康に対し、京都守護・伊賀光季を討ち取るように命じました。
ちなみに、この当時、京都守護は2人いました。
伊賀光季と源親広(大江親広/大江広元の子)です。
にもかかわらず、このドラマではまるで1人しかいないような描き方です。
坂井先生の『承久の乱』によれば、秀康は伊賀光季に出頭を要請したところ、光季は体調不良を理由に出頭を拒んだため、同年5月15日に討ち取られたとあります。
もう1人の京都守護・源親広は出頭に応じ、義時につくか院につくかを迫られて後鳥羽に味方したと書かれていました。
ただし、『百錬抄』にはこう書かれてあります。
つまり、光季を討った際にはすでに義時追討の院宣が出ていたことになります。また坂井先生によれば、同日、官宣旨(天皇の命令書)も出され、全国の武士に発令されたと述べられています。
ちなみに鎌倉に向けられた使者は以下の四人である坂井先生は述べられています。
・三浦義村を院側に引き込む三浦胤義の使者
・伊賀光季が討伐を受ける直前に発した使者
・西園寺家の家司・三善長衡が西園寺公経・実氏親子が幽閉されたと知らせる使者
・院の下部「押松」
西園寺公経は、三寅の母の父(祖父)にあたり、鎌倉と縁があったことから鎌倉贔屓の者とされていた感があります。
5月19日、伊賀光季が送った使者が鎌倉に到着しました。
また、同じタイミングで義村も胤義の使者と会っていたようです。
坂井先生は『承久の乱』で胤義の書状の内容と義村の応対は以下のようであったと書かれています。
これを見る限り、ドラマで書かれた三浦義村の一連の動きは、細かい点を除いてほぼ史実に沿って構築されてますね。
なお、上皇の院宣は、ドラマで描かれた通り、下記の御家人に下されていました。
武田信光(甲斐武田氏当主/武田信義の四男)
小笠原長清(甲斐武田氏庶流/小笠原氏の祖)
小山朝政(下野小山氏当主)
宇都宮頼綱(下野宇都宮氏の隠居)
長沼宗政(演:清水伸/小山朝政の弟/長沼氏の祖)
北条時房(演:瀬戸康史/トキューサ/義時弟/政所別当)
足利義氏(源姓足利氏当主/源氏門様)
三浦義村(演:山本耕史/相模三浦氏当主)
坂井先生は上記の武士はいずれも在京経験がある東国武士と述べられていますが、私は、大なり小なり幕府にそれなりの不満をもっている人物に送られたのではないかと思っています。
武田信光はお父さん(武田信義)の代には頼朝と並ぶ勢力だったのに、頼朝の同族潰しで一御家人にまで貶められていますし、宇都宮頼綱は事実無根の謀反の疑いをかけられてますからね。
足利義氏については、この当時の源氏門葉筆頭だった大内惟信が上皇に味方したので、誘いの手を伸ばしたのでしょうし、時房はたぶん義時亡き後の執権にでも据えるつもりだったのではないでしょうか。
小山、長沼、三浦については、当時の有力御家人で、この3人が上皇に寝返ると、鎌倉はかなりの戦力ダウンになります。
義時の決断
押松の身柄を押さえて、さきほどの8人の御家人の院宣を前にして、義時はある決断をします。そのためにトキューサ(時房)、泰時、朝時(演:西本たける)が集められました。
ここで、泰時は驚くべきことを言います。
おいおい、泰時くん、君、このドラマの放送回の前半でなんて言ってましたっけ?
上皇様相手に戦うことは神仏を恐れるに等しいこと、つまり戦ってはならぬ相手、そう言っていた泰時が180度の前言撤回。これには義時でなくても驚きます。
この言葉には疑問を持った泰時は「戦はしないおつもりですか」と尋ねます。そこで義時は「この院宣の内容をよく見ろ」と答えました。
つまり、義時の首を上げればそれで要件は足るということです。泰時の言う通り、一戦交えるということは、義時一人の首を守るために鎌倉の御家人と武家の都・鎌倉を犠牲にすることであり、そんなこと義時にできるわけがありません。
なぜなら、彼がこれまでやってきた非道なことはすべて「鎌倉のため」にやってきたことだからです。
梶原景時、比企能員、源頼家、畠山重忠、平賀朝雅、北条時政、和田義盛、源仲章、源実朝……
かつての戦友や肉親を殺害したのはなんのためか。それはすべて「鎌倉のため」でした。
その信念を通してきた義時が、自分の身に降りかかる火の粉を払うために、鎌倉の御家人を巻き込むのは道理に合わないことです。
義時はこの時、自分の命を捨てる覚悟を固めたのだと思います。
ゆえに、自分の後のことを泰時とトキューサに託したのです。
義時は自らの体一つで上洛することを尼将軍に裁可してもらうため、政子の屋敷に赴きます。政子は頑としてこれを受け入れませんでした。
しかし義時はこれを執権としての自分の最後の仕事と決め、自分がやってきたことの後始末として京にいくことを曲げませんでした。
義時は今、まさに「鎌倉のてっぺんに立った」感があったのだと思います。
政子の決断
御家人たちが集められ、皆の前で義時は朝廷から自分を討てという院宣が下されたことを話そうとした時、「お待ちなさい」と政子が登場します。
この時、尼将軍は鎌倉殿である三寅の後見であります。位階も従二位。従四位の義時が我を通せる道理がありません。義時はその場に着座して控えます。
しかし、集まった御家人たちは義時から話があると聞かされてきたわけで、そこに政子が登場しては「おい、話が違うぞ」とざわつくのも当然でした。
その空気を読んだトキューサは「静まれ!尼将軍からお言葉があるぞ」と政子が話しやすいように前振りを入れました。
政子は実衣から演説の原稿(文書)を受け取って、演説を始めました。その原稿は、政子が広元に依頼して、上皇の義時追討を鎌倉追討に話をすり替え、御家人が一致団結して戦うような心を討つものとして作らせた原稿でした。
しかし、読み上げている冒頭で政子の演説は止まり、原稿を実衣に返しました。
この時、泰時が言いました。
これに呼応して雄叫びをあげる御家人たち。泰時は一人、義時に向き直り、膝をついて申し上げます。
近年の研究により、後鳥羽上皇の院宣は義時追討であって、当時の鎌倉殿である三寅や後見役である政子は埒外に置かれていたことがわかっています。
さらに三浦義村のご注進によって、押松の身柄を早期に確保でき、院宣が他の御家人に行き渡る前に押収できたことも鎌倉にとって幸いなことでした。
『吾妻鏡』や『承久記』には御家人たちを前にして政子の名演説があったと書かれていますが、そこには「義時追討」の事実を「鎌倉追討」に置き換えて、源氏類代の恩を持ち出し、今こそその恩に報いる時と御家人たちの心を揺さぶりました。
歴史にもしはありませんが、義時追討の院宣が前述の8人に行き渡り、鎌倉が知ったのが最後であったら、もしかしたら、結果はまた違ったものになったのかもしれません。
鎌倉が上皇に勝てたのは、院宣が他の御家人に渡る前に三浦義村が義時に院宣のことを知らせて、押松を逮捕できたことであり、それが運命の分かれ道だったと思います。
ただ、これですべての御家人が一目散に京へ進軍したかと言えば、そんなに物事は単純ではありませんでした。ここから先も、一つ一つの動きに御家人たちは神経を尖らせていたのです。
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