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吉良氏という武士の変遷

2023年1月15日、NHK大河ドラマ『どうする家康』第3話「三河平定戦」が放送されました。

大高城を撤退し、岡崎城に入って半自立状態になった家康が、今川を裏切って三河を平定し、織田に近づくまでの話になっています。

極めて個人的な見解ではありますが、3話まで見て、このドラマは主役の松本潤はどうでもよく、その脇を固める松平家臣団、今川・織田の諸将の演技を見ていた方が楽しめることわかりました。

なので、当ブログは昨年の『鎌倉殿の13人』とは違って、ドラマの補足的内容をやや掘り下げて書いていこうと思います。

吉良氏とは

ドラマの中で、岡崎城に本拠を構えた家康は、今川氏真(演:溝端淳平)から三河を平定して駿府に戻れという命令を受けます。しかし松平の軍勢は西三河を実効支配する織田の軍勢を駆逐することができませんでした。

そんな中、吉良義昭(演:矢島健一)という武将が松平氏に合力してきます。

吉良氏は足利将軍家の庶流です。
足利宗家三代当主・足利義氏(母は北条時政の娘)の庶長子・長氏を祖とし、三河国吉良荘を支配して吉良氏を名乗ります。

長氏には二人の子がおり、長男・満氏が吉良氏の家督を継ぎ、次男・国氏三河国幡豆郡今川荘を本拠に別家を興します。これが今川氏です。

つまり吉良氏が主筋、今川氏が吉良氏の分家筋になります。

吉良氏三代・貞義の時に、足利尊氏の倒幕活動に賛同してこれに従軍。足利幕府創設の功労者の一人になりますが、幕府成立後の尊氏と直義の兄弟喧嘩(観応の擾乱)の影響で、吉良氏も西条吉良氏と東条吉良氏に分裂します。

以後は、西条吉良氏は足利庶流である渋川氏、石橋氏と共に「足利将軍御一家」として扱われ、他の足利庶流とは別格に位置づけられます。同時に吉良氏の庶流である今川氏も高い家格を有することになりました。

吉良氏は今川氏と違って守護としての領国を持たず、三河国吉良荘、遠江国曳馬荘などを所領として持つに止まりますが、遠江国が今川氏の支配に入ると三河国の所領を守る一国人領主レベルまで落ち込みます。

しかし今川氏は吉良氏を主家として立てることを忘れることはしませんでした。

一方で、三河国内では松平氏が台頭してきます。松平氏は東条吉良氏に近づき、元康の祖父・清康や父・広忠は、東条吉良氏に当主より片諱を賜ったと言われます。

1549年(天文18年)、東条吉良氏当主の吉良義安(義昭の兄)が、今川義元に敗れて捕虜なります。この時、義元の命で西条吉良氏当主の吉良義昭が東条・西条両吉良氏の家督を併せて継承することになり、ここに約200年ぶりに吉良氏が統一されました。

そしてこの頃より吉良氏は今川氏の麾下武将になってしまいます。

桶狭間が変えた吉良氏の運命

吉良義昭は三河国内の今川方の一武将として活動していましたが、桶狭間の合戦で今川義元が討死すると、松平元康が岡崎城に入って独立的行動をとりはじめます。

元康は今川氏からの独立を画策し、手始めに義昭の東条城を、1561年(永禄四年)4月に攻めますが、一族の松平好景(深溝松平家二代目)を討死させるという手痛い敗北に終わりました。

その後、元康は義昭の持ち城である西条城(西尾城)を落とし、そこに酒井忠親(酒井忠次<演:大森南朋>の父)を入れると、9月、東条城を包囲しました。ここで討って出てきた吉良氏重臣・富永忠元を逆に討ち取って義昭の戦意を喪失させ、降伏させることに成功します。

一方で、東条城を落として吉良義昭の没落させた元康の行為は駿河の今川氏真を激怒させます。

そしてドラマの通り、氏真は当時駿府にいた元康の人質のうち、妻の築山御前、子の竹千代、亀姫を除くすべての人質を殺害するのです。これが元康と氏真の決定的な決裂になります。

その後の吉良氏

勢力を失った吉良義昭は、岡崎での強制居住を強いられていましたが、1563年(永禄六年)、三河で起きた大規模な一向一揆において、一揆側に加担します。

しかし、ここでも元康に敗れ、やがて三河国外に脱出することとなります。

吉良氏の勢力を三河から完全に駆逐した元康は、かつて今川義元よってその家督を義昭に奪われた東条吉良氏当主・吉良義安を新たに両吉良氏の家督継承者としました。

義安は1549年(天文18年)に義元に捕われた後、元康と同じ人質としての扱いを受けており、1555年(弘治元年)元康(当時は竹千代)元服の際に理髪役を務めています。

これは松平家が祖父・清康、父・広忠同様、東条吉良氏を主筋とする現れであり、その吉良氏を従属させることで今川氏の三河支配を合法化する狙いもあったのではないでしょうか。

義安は松平清康の娘を妻としており、その子・義定は元康の従兄弟にあたります。義定は父と共に家康(元康)に仕え、孫の義弥は家康の三男・秀忠に仕え、三河国吉良荘3,000石を安堵されています。

義弥は徳川幕府成立後、1608年(慶長十三年)従五位下、侍従・左近衛権に叙位任官し、やがて徳川幕府において儀式典礼を司る高家の一員となりました。
この子孫が赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良義央(上野介)になります。




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