頼家の2代目鎌倉殿就任への道
2022年7月3日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第26話「悲しむ前に」が放送されました。
頼朝の死と、頼家の鎌倉殿就任の経緯が描かれています。
意外な話に思われる方もいるかもしれませんが、『吾妻鏡』には頼朝の死についての直接の記載はありません。というか1196年(建久七年)から、頼家が2代目鎌倉殿となる1199年(建久十年)2月までの約3年間が欠落しているのです。
頼朝の死については落馬が通説(『吾妻鏡』の中で後年の回想で触れられている)となっていますが、『吾妻鏡』が欠落しているので、本当はどうなったかがわかりません。よって、今回のドラマのような演出は十分あり得る話だなと思っています。
そして頼朝の死後の後任の鎌倉殿がどうなるのかをめぐって御家人間の権力闘争が始まります。すでに全成を押す北条時政と頼家を推す比企能員の派閥ができており、結果、政子の裁定で頼家が2代目鎌倉殿に決まります。
しかし、この道のりはそう簡単にはいきませんでした。
今日はそのあたり綴っていきますが、その前に、『吾妻鏡』で欠落している1196年(建久七年)に起きた朝廷内のクーデター、そして土御門天皇の即位に触れないわけにはいきません。
建久七年のクーデター
まず、頼朝を征夷大将軍に押し上げたのは、1191年(建久二年)12月に関白に就任した九条兼実(演:田中直樹/『玉葉』の筆者)でした。
翌年3月13日に後白河法皇(演:西田敏行)が崩御すると、兼実は若き主上である後鳥羽天皇(演:尾上松也)を補佐する立場となります。
そして頼朝の鎌倉政権と協調姿勢を取るため、同年7月12日に頼朝を征夷大将軍に任じ、朝敵を征伐するために全国の武士を動員できる強大な軍事権限を与えました。
すでに頼朝は奥州合戦の一件で、自分の私的な命令のみで全国の武士(御家人に限る)を動員できる権力を持っていましたが、征夷大将軍補任によってその権力を公のものとして認められたことになります。
一方で、兼実は朝政において先例を重視し、五摂家を中心とした上流貴族とそれ以外の貴族を官位で明確に差をつける対応を行いました。それは後白河法皇時代に権勢を伸ばしていた、院近臣の公家勢力を朝廷内で押さえ込む効果をもたらしました。
特に兼実は院近臣の昇進をよく思っておらず一定のレベルで止めたため、源通親(土御門通親/演:関智一)らの反発をかってしまいます。
通親は後白河法皇の娘・覲子内親王(母親は丹後局)の後見人となっており、内親王が院号宣下を受けて宣陽門院となった後は、同院の執事として政務を任されていました。そのため、兼実に不満を持つ公家は自然と宣陽門院の下に集まっていました。
さらに通親は鎌倉政権への調略も手をつけており、丹後局を通じて頼朝と誼を通じ、頼朝と兼実の関係に肘鉄を食らわせています。
これらの下準備を進めていく中で、1195年(建久六年)12月、後鳥羽天皇の妃になっていた通親の娘・在子が為仁親王を出産しました。
当時、後鳥羽天皇の中宮(皇后)には九条兼実の娘・任子が入っており、在子と同じく懐妊していました。
しかし、任子の子供は内親王だったため、朝廷内のパワーバランスは、兼実から次期天皇の外祖父となる通親に傾き始めます。これは先例重視の兼実の朝政に不満を持つ公家の反発により加速していきました。
1196年(建久七年)11月23日、中宮・任子は内裏を追放され八条院に移りました。11月25日、九条兼実は関白を解任され、後任は元関白である近衛基通が任じられました。
この時、通親は権大納言の地位にありましたが、兼実に不満を持つ公家をとりまとめていたため、これ以後、朝廷は源通親主導で再編されていきます。
土御門天皇の即位
1197年(建久八年)あたりから、源頼家のことが記録に出てきます。
同年12月15日、頼家は従五位上に叙され、右近衛少将に任官しています。『吾妻鏡』が欠落しているので、詳細は不明ですが、おそらく頼家の元服だと思われます。
1198年(建久九年)1月6日、九条兼実の日記『玉葉』に、後鳥羽天皇の譲位のことが触れられています。これに対して翌7日に兼実の怒りが爆発している記述が残っています。
兼実の言う通り、譲位されて新天皇に即位するのは当年3歳の為仁親王。ちなみに後鳥羽天皇はこの時まだ18歳。健康的リスクがあるわけではなく、急いで譲位をする理由が全くない。あるとすれば、源通親の権勢を盤石にすることしか想定できないくらい不自然な譲位と言えます。
1198年(建久九年)正月11日、後鳥羽天皇は3歳の為仁親王に譲位しました。為仁親王は土御門天皇として即位され、後鳥羽天皇は上皇となり、院政を開始します。
また、同月30日、頼家は讃岐権介に任じられています。
官位だけでなく、朝廷の役職、さらに地方官である受領の兼任。このあたりから朝廷はすでに頼朝の後継者として頼家を見ていたと思われます。
そして同年12月27日、京に鎌倉の異変(頼朝の急病)が知らされます。
頼朝急病に関する京の反応
『吾妻鏡』が欠落しているので鎌倉の状況は全くわからないのですが、それ以外の史料にたくさん描かれてあるので、京の状況はなんとなくわかります。
年が明けた1199年(建久十年)1月18日には、「頼朝死亡」の未確認情報が京に届いています。下記は藤原定家の日記『明月記』からの抜粋です。
ここから朝廷が慌ただしくなってきます。
この時、朝廷も院も権力者は通親ですので、ちゃっかり自分の昇進(右近衛大将)と頼家の昇進(左近衛中将)を織り交ぜて発表してるところが抜け目ないですね。ところがこの2日後の1月22日になると、定家が通親に対して呆れはてている記述があります。
要するに、通親は右近衛大将昇進を目論んでいて、鎌倉が反発することを予測して頼家の官職を右近衛少将から左近衛中将に引き上げる準備をしていたのでしょう。
ところが頼朝が急病の第一報が入って、このまま亡くなると昇進人事そのものが止まり、自分の右近衛大将就任もなくなってしまう。
それを防ぐためには頼朝が亡くなるのをわかっていながら、あえて奏聞せず、除目直後にそれを知った「体裁」にしたというのが定家の認識だったようですね。
なんともコスイやり方ですけど。
頼家を頼朝の後継者にする流れ
ドラマでは義時(演:小栗旬)が、大江広元(演:栗原秀雄)、中原親能(演:川島潤也)、藤原行政(演:野仲イサオ)の文官トリオに、どうやったら頼家が後を継げるのかの方法を聞いています。
しかし、実際には前述の通り、すでに頼家が後を継ぐことは決まっていたようです。頼朝が亡くなる前に官位と官職を受けているというアドバンテージもあったでしょうし。
下記は1199年(建久十年)2月6日の『吾妻鏡』の記述です。
これによって頼家は二代目鎌倉殿としてのお墨付きを朝廷より頂いたことになります。しかし、この時の頼家はまだ「征夷大将軍」ではありません。そこに至るまでにはまだ数年が必要でした。
上記は二代目鎌倉殿になってから、征夷大将軍に至るまでの頼家の官職履歴です。たった2年で正五位下から従二位まで昇っています。
つまり正五位上、従四位下、従三位をすっとばしてます。
これは異例の対応なのかもしれません。
なお、頼朝の死によって、京都では「三左衛門事件」と呼ばれる騒動が勃発しています。在京御家人である後藤基清、中原政経、小野義成の三名が、源通親を襲撃しようとした事件です。裏の黒幕は頼朝の妹婿である一条能保の家人たちのようですが、いまいちよくわかっていません。
ただ、幕府としては頼朝から頼家に移行する時期であり、ここでモタモタしていると幕府の権威を損ねることから大江広元、中原親能らによって迅速に処理されたと言われています。
また、頼家の体制になったことで、これまであまり表に出てこなかった頼朝の縁戚である北条氏と、頼家の乳人である比企氏との権勢争いは表面化していくことになります。
そう、ここから、このドラマは、源氏の内部抗争から、幕府に忠誠を誓う御家人同士が血で血を洗う凄惨な内部抗争へと移っていくのです。