三河一向一揆のもたらしたものー戦国大名・松平家康の誕生ー
2023年2月19日、NHK大河ドラマ『どうする家康』で、三河一向一揆の発端が描かれました。
ドラマの内容はほぼフィクションではありますが、当時の一向宗のものの考え方やその教団組織がもつ異常とも言えるカリスマ性、ならびに寺内町が持っていた特権などをドラマ内で表現していたことは、評価すべきだと思います。
三河一向一揆は徳川家康における三大危機の1つと言われています。
僕自身はそうは思いません。
ただ、この事件が、松平家康という存在を三河の戦国大名として確立させたことだけは間違いないのではないかと思っています。
今日はそれを綴っていこうと思います。
寺内町
寺内町とは寺院を中心に、その信者や支持者が周辺に住居や店を並べ、やがてそれを塀や堀で囲んで「すべてを寺院の領域内」と見做したものを指します。
ツイッターでは、ドラマで舞台となった本證寺の規模を示す投稿がいくつか見られました。
当時の岡崎城より、はるかに強固な土塁を築いていたのかもしれません。
ちなみに寺内町の最たるものが石山本願寺(石山御坊)だと僕は思っています。
守護使不入の権(検断権)
今回ドラマに出てきた「不入の権」は、正確には守護使不入の権とでもいうべきもので、一種の治外法権です。寺内町で起きたことは寺内町で処理し、守護は介入することができないことを指します。
この歴史は古く、鎌倉時代まで遡ります。
鎌倉時代に定められた御成敗式目には守護の役割として以下のように書かれています。
しかし、実際は朝廷、公家の荘園などに踏み行ってトラブルになることを恐れ、特定の荘園には守護が干渉できない特権を与えていました。これが守護使不入の権の始まりになります。
守護の検断権は、鎌倉幕府が足利幕府に変わり、鎌倉幕府の地頭職が果たしていた機能を守護が内包するようになります。
しかし、応仁の乱以降、足利幕府の権威低下と共に、守護大名が独自に不入の権の付与できるようになりました。三河国の本願寺教団(一向宗の寺院)は、当時領主であった家康の父・松平広忠から守護使不入の権を得ていました。
一向一揆の発端
三河一向一揆の発端は諸説あってどれが信憑性があるかはわかりませんが、どの説にも共通してあるのは「守護使不入の権の侵害」がトリガーになっていることです。
その守護使不入の権を侵害されたため、寺院側が決起して松平の家臣たちの城を攻撃し始めた。これが始まりのようです。
分裂する松平家臣団
これは三河に限ったことではありませんが、多くの一揆は「農民(庶民および野武士)VS 支配者」の戦いです。
しかし、一向一揆は「宗教(一向宗)VS 支配者」の戦いでした。
これはつまり「阿弥陀仏が偉いのか、領主である家康が偉いのか」を問われている戦いとも言えます。
そして宗教は一般庶民だけが信者ではなく、武士階級にも信者はいて、当然松平の家臣団にも信者はいました。
Wikipediaによると、この時、家康に歯向かった家臣は下記の通りのようです。
また、これに便乗して家康に歯向かった三河国内の敵対勢力(国衆)は以下の通りです。
一揆の終焉と松平領国体制の成立
三河一向一揆は半年ほどで収束したのは、分裂して一揆側に加担した松平家の家臣たちの帰参を家康が許したことが大きいと思っています。
三河一向一揆は1563年(永禄六年)12月以前に始まり、半年ぐらいで終わることを考えると翌年5月くらいには収束したのではないかと思います。
一般的な田植えのシーズンが5月頃であることを考えれば、領主である家康としては、田植えの時期までに収束させないと秋の収穫がゼロになってしまいます。
また、それは在地武士である松平家臣団も同じ考えだったのではないでしょうか。
それゆえ、家康は離反した家臣の罪を赦し、帰参を咎めなかったのではないかと思うのです。
なお、家康は三河一向一揆の収束後、本願寺寺院を弾圧し、三河国内で一向宗を禁じました。これにより一向宗の寺内町における特権は剥奪・解体され、なおかつ家康と同族の十八松平の一部や東条吉良氏ら敵対勢力もエネルギーを失い、三河国内は家康の支配下に統一される流れが生まれます。
この一揆の収束後、家康は三河国内を万全の体制を固めることができ、名実ともに戦国大名として自立を果たしたと考えています。家康はこれ以後、対今川戦略に全力で取り掛かることになるのです。
一向一揆は三河以外の日本各地でおきましたが、領主が倒れず、なおかつ一向宗の中で内輪揉めも起きず、領主側によって完全に制圧された一向一揆は数えるぐらいしかないと思います。
この面をとっても三河一向一揆は非常に珍しい例なのではないでしょうか