庭に行って「1」を拾って来いと教授が言った
学部の一年生の時、線形代数の授業で不覚にも(?)感銘を受けてしまったのがこの言葉です。当時の私は虚数単位というものに言いようのない違和感を感じていました。「二乗すると負になる数として虚数単位なるものが必要となりました。でもそういう数を理屈の上で考えたというだけでそんなものは存在しないのでは。」と。線形代数の担当教員だった教授は非常に教育的な方でした。私のような凡人に上で述べたような疑問を投げつけられることに慣れていたのでしょう。
「複素数が存在しないというのなら、君、庭に行って数字の「1」を拾ってきなさい。実数は存在するのでしょう?」
確かに。
庭に行ってもどこに行っても慣れ親しんできた実数は落ちていません。そう、小学1年生以来、実数には慣れているけれども虚数単位を習ってから数年しか経っていません。実数も虚数(あるいは複素数)も数学的概念であることに変わりはないのです。実際、実数は複素数の一部です。
単に虚数単位に慣れていなかっただけだったと気付きました。
虚数を受け入れるのは難しい
虚数単位は高校で習うでしょう。二乗すると負になる数。私の場合、習ったときの感想は「そんなこともあるか」でした。バカみたいな感想です。
複素数平面というものも高校で習うでしょうか。実数は直線上に並ぶ幾何学描像となりますが、複素数は平面上の数という描像になります。これにより複素数は大小比較ができないなどの性質が簡単に理解できるようになります。
複素平面を考えたのはガウスだと言われていますが、当時は学者の間でも複素数はなかなか受け入れられなかったそうです。私が受け入れるのに時間がかかったのも無理はありません。
観測量は常に実数
実数は複素数の一部です。複素平面上の実軸上だけが特別に実数なのです。私は物理専攻なのでいつも物理からの類推で数学をとらえています。色々な物理量を測定できますが、測定値が虚数になることはありません。
「そりゃそうだろ。」と思うかもしれませんが、例えば電子のような極微の粒子の振る舞いを記述する理論である量子論では虚数単位がバンバン出てきます。さらには反粒子(持っている電荷の符号が逆転している粒子。例えば、電子の反粒子は陽電子で、電子の電荷と反対符号の電荷をもつ。)は、正に複素共役をとることで存在が予言され、実際に発見されました。
ところが、測定にかけるとそれは常に実数。理論に現れる虚数は直接測定できないのです。何故でしょうか、今の私にはわかりません。理論の枠組みも複素数の測定値が得られないようになっています。これだけ見るの複素数の測定値が得られないことが理論的に予測されているかのようですが、話は逆です。つまり、「測定にかけると常に実数という経験則」を条件として理論に取り込んでいるので、理論が複素数の測定値を予言しないのは我々がそう仕向けた結果なのです。
やはり実数は特別
やはり物理の視点に立つと実数は特別です。裏では複素数が絡む仕組みが存在しても、我々の目に見えるときは常に実数となって現れます。複素数の部分は測定できないので自由度として残り、理論の中で重要な役割を果たします。もはや複素数がないと電子などの素粒子を記述できないほど。なのに、測定値は実数。
わかったその先のわからないこと、そして気力について
結局、何かがわかるとその先にまたわからないことが出てきてしまいます。わかった瞬間の喜びは他に変え難いものがありますが、そこまでの道のりがなかなかに過酷です。気力が充実している時は良いのですが、そうでない時はメンタルケアに注意しないと本当に鬱になりそうです。
上手く休息を取りつつ、生産性最大化を図りつつ、日々着実に進めて行かないといけません。
今日もここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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