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英単語ピーナツと川村徹先生

駿台予備学校横浜SECC館の「英文法演習」の教室に入ってきた川村徹先生の印象は、その蓬髪から実験室から現れた化学者であった。ひとつの分野に一心不乱に傾倒している文字通り専門家のたたずまい。こだわりの強そうな印象もあったが、英語の職人といった風体に興味をもった。

高校教師の几帳面な授業に慣れた高校生には合わなかったかもしれない。受講生は次第に減っていったが、わたしのみるところ文法解説はいたって正統的。伊藤和夫先生を敬愛しているようすで、テキスト内の問題をつねに「英文法頻出問題演習」の項目と対照しながら、ときには「構文詳解」や「英文法教室」の解説もわかりやすく示す。

要点は印象的なフレーズを歌うように唱えて、耳に残った。
<英語には”a”もつけないし、”pl”(plural)にもしない単語があるのよ〜>
<関係代名詞に前置詞がついたら、前置詞が必要だ〜という感覚をもつのよ〜>

文法の各項目は図や表を駆使して視覚的にまとめ、ネイティブが頭の中でもつイメージを伝えてくれる。高校の授業では訳を暗記するだけで理屈が分からなかったいわゆる鯨の構文を、一般常識と動物学者が鯨と馬に関してそれぞれ抱く<魚度>の度合いを棒グラフに示して、「鯨はその<魚度>において、なんら馬に勝るところはない」と訳してみせ、たちどころに理解させてくれた。

なかでも単語の覚え方はひじょうに参考になった。清水かつぞー著「英単語ピーナツほどおいしいものはない」という聞きなれない単語集を持参し、連語で覚える方法を推奨した(金・銀・銅メダルコースの3部作だが、当時は金は未刊行)。これは当時主流だった英語と日本語を1対1で結びつける方式ではなく、日本語から浮かぶイメージに英語を結びつける方式を採った珍しい単語集だった。

<definiteは清水かつぞーさんの「英単語ピーナツ」によると…あ、出てますね、a definite purpose、はっきりした目標>

「はっきりした目標」という日本語から「a definite purpose」という英語を導き出す訓練をする。ひとつの日本語の殻に英単語の粒が2つ入っているから「英単語ピーナツ」というわけである。英単語は「表現の最小単位」である連語でおぼえるのがいちばん合理的で発展性があるという。そのイラスト付きのカバーから一見キワモノ感もあったが、清水さんのコラムを読んでいくと、英語学習にたいする明確な哲学と思想が表れていて真面目で誠実、ユーモアと優しさにあふれた英語教師であるとわかり、わたしはこれを使うことに決めた。

そのコラムに川村先生の名前を見つけた。カバーの袖に載っている歌『「ピー単」音頭』は「駿台予備学校の川村徹さんにお願いして作ってもらった」とある。

國弘(正雄)先生にお会いしたとき、たまたま、川村さんを紹介していただいた。彼とは同業者のよしみで、すぐに意気投合した。あるとき趣味をたずねると「下手な作詞です」という。その場で、毎年予備校の最終講義で一回だけ歌うという「駿台受験坂」を披露してくれた。

そこで、最終講義のひとつ前の授業の日に友人と二人で講師室をたずね、「次回の最終講義ではぜひ駿台受験坂を歌ってください」と頼んでみた。すると、川村先生はすこし困った顔をされて、「さいきんはあいつは授業で歌をうたうと苦情がくることがあるので教室ではうたえないが、君たち二人にはテープに吹き込んで送ってあげよう」とおっしゃる。しばらくすると本当にカラオケに合わせて歌われた駿台受験坂が送られてきたのである。

その後わたしは一年浪人し、志望する大学に合格したあと、川村先生にお礼の手紙を書いた。するとすぐに私の後輩になりますねと返事をくださった。「よく覚えています。なにしろ駿台受験坂をテープに吹き込んだのですから」。筆まめな方で、何度か手紙のやり取りをさせていただいた。あるときハガキの最後に「川村徹 清水加津造(実はペンネーム)」と書かれてあり、おどろいた。「英単語ピーナツ」は川村先生の著作であり、「川村さんに作詞をお願いした」云々の記述は遊び心あふれる創作だったのだ。駿台という肩書きに頼らず<「本の内容だけで勝負してみせるよ」という反発心がペンネームを使った動機>とある。

大学で韓国からの留学生と交流するサークルに入り、近いうちに韓国に行きますと伝えると、また返事をくださり、自慢になりますが「英単語ピーナツ」の3部作が韓国語に翻訳され出版されました、とのこと。ついては、

<銅メダルコースには訳者のはしがきがあるのですが、当然韓国語なので私には読めません。嬉しいことに、友達に韓国の方がおられるようですから、どんな内容なのかわかりましたら教えてくださいませんか。きちんとした翻訳でなくてかまいません。>

さっそく留学生に頼むと快く引き受けてくれ、きちんとした⚫︎  ⚫︎  ⚫︎  ⚫︎  ⚫︎  ⚫︎翻訳を届けることができた。外国人が書いたとは思われない見事な訳でと喜んでくださり、ここが川村先生らしいのだが、訳者の留学生には日本語版のピー単と八街産の袋詰めピーナツをどっさり、わたしには韓国語版のピー単を送ってくださった。

その川村先生が若くして亡くなったと知ったのは、國弘正雄著(企画構成川村徹)「怒濤の入試英作文 基礎20題」(たちばな出版、2003年)の「はじめに」を読んだときだった。

こういった仕組みの本を出すに至ったのは、故川村徹君の着想によるところが多大だった。(略)同君は小生のこの領域における右腕で、実によく助けてくれた。その夭折(といってもよい若死)をいまなお惜しみ、その霊の安息を念う。

講師としての私はあまり上等のほうとは思っていませんが、と慎重に前置きをされて、「参考書書きとしてはかなり先駆的な仕事が出来ると思っている」とお手紙でおっしゃっていた川村先生。その卓越した独創性は「英単語ピーナツ」が30年も店頭に並びつづけている事実、そしていまや単語集といえばどれもコロケーションを載せている事実が証明している。手がけたいお仕事の構想をおおくおもちだったに違いなく、いまなお残念で寂しい気持ちが込みあげる。
(散録2023年2月記)


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