並みの付き合い
友達でも家族でもない、簡単に言えばお互いにあまり関心のない人との付き合いが苦手だ。
今の職場は個人的な付き合いのある人は一人もおらず、全員がたまに雑談する人ぐらいの距離を保ったまま日々多忙な交代勤務をこなしている。そうした関係が決して嫌なわけではないのだけれど、コロナが静かにあらゆる常識を変えてしまったように、無駄なのかどうかの議論もないままコミュニケーションが固定化・定型化されることが進められる現状にどうにも馴染むことができない。
おそらく馴染む必要もないのだけれど、慣れないまま老害と呼ばれる人間になる未来が薄ら山間の朝霧の様に私の心を漂いつづけている。
時代や老いについて考えることに意味を持たせたがるのが私の悪癖の一つだ。
今ではそれらは自然現象のうちのひとつだと捉えるように心がけているけれど、庶民労働をし、世俗で生きる身であるから世渡りの処世術のようなものを行動に移さねばならぬことも多々ある。頭でどう考えているかどうかというのは、社会を滞りなく循環させるための労働者階級では重要視されない。というと大袈裟かもしれないがそこが最重要ではない、と言えば納得してくれる読者諸氏も多いことだろう。
意識さえしなくなって久しいという御仁も賢明な人生を意識的にだろうが無意識的にだろうが選び取ったという事実は抱えているはずである。
私自身もことプライベートにおいては並みの付き合いに心地よさを感じることも多い。常連の飲み屋で席を並べる名前も知らない陽気なジジイ、読書会でしか会わない聡明な年若い女性、ゲストハウスで出会い夜な夜な共に酒を飲んではいつの間にかいなくなっている旅人、そうした人々と一瞬生活という軸から離れて出会い時間を共にすることは私にとってかけがえのないものだ。可もなく不可もなく心地良い並みの付き合いである。
しかしこれが仕事となれば話が変わってくる。
1日の長い時間を共有しつつもそれは個々人として共有しているのではなく社会を回すために企業の目的達成のために協力している関係にある。であるから人を見るときにこの人は仕事ができる人かどうか、私と協力して事を進めることができる人であるかが重要になってくる。
私がしようとしていたことを何も言わずとも察してこなしてくれる人や、特別とも思わず力を貸してくれたり頼ってくれたりする人が有難いものだ。しかしそうした信頼を重ねたからと言って、飲み屋でベラベラ話せるかと言えばそうではない。一日目的なく共に過ごせと言われればお互いに苦痛にしかならないだろう。
目的一致しているからの関係である。これも並みの関係ではあるが、初めに述べたものとは本質が違うのである。そして仕事でなにより困難なのは金を稼ぐという目的が少なからず一義的な個人の問題として全員に降りかかっていることだ。
仕事をする上で呼吸が合うからといって必ずしも馬が合うとは限らない。側から見れば阿吽の呼吸で動いている様に見えたとしても、内実仲は悪かったりする。
こういったところが私にとって中々受け入れることのできないわだかまりとなっている。
そういったところで明日も明後日も労働だ。いつまで続くかはわからないが数年は今の職場で生きるだろう。そして、やめる時まで傍にいる者がどういう人間なのか一生わからぬ謎になるのだ。
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