栄光
自由な言葉、自由な韻、そして浮かんでは消えていく心の形。
そのへん、このへん、あのへん、の人達の切実で、されどありきたりな小噺。
雑記、昔のこと、ふと思ったこと、考えたこと、とりとめのないことです。
記録というのはいつだって自分のためにあるから尊い。けれど、そうした誰かの日々の断片が別の誰かの記憶や思考と交差することもまた尊い。
異国の食を気軽にたべるその手軽さに、 都会の豊かさと切なさを想う あるべき場所にないものは 逃れてきた誰かの想い出 また人は流れてゆく ここではないどこか いつか行けるのかもしれない けれどそれはその未来の 『ここ』であるだけなのか 今ここ私は過去にとっての どこかにいるのだ
誰もいない公園で 滑り台の冷たさが 妙にぬるく感じた日 団地の灯りはぼんやりと 見上げる煮物の香りが立つ 行き場のない影が消え 金木犀の匂いにゆれた 忘れた想い出の数かぞえ 羽織った背広が軽くなる コンビニで買う缶ビールひとつ 見上げる灯りの影は 見当たらない
休日に何をしていいかわからなくなったのはいつからだろう。 しなきゃいけないことはたくさんある。 部屋の片付けをしたり、病院に行ったり、先の予定を決めたりしなければいけない。 やらなければならないことは無数にあるが、そのどれもする気が起きない。 そうやってすべきことを後回しにして生きてきてしまった。そうした生き方を変えなければいけない。そうなのだろうが、結局は全く変えられていない。 そんな休日。ふた月に一度ほどカラオケに行くようになった。 最初に覚えた金のかかる遊びがカ
料理教室で仲良くなった渉くんは少しだけ変わっていた。 例えば女ばかりの料理教室で1番料理が上手で、なのにレシピと違うアレンジをこっそりみんなに黙ってしてしまうことがあった。 なんでそんなことをするのか、こっそり二人になったときにきいたら 「みんなが食べて美味しいものって本当にあんのかなあ」 どこを見ているのかわからない目でそんなことを言っていた。 変な人だな、と思った。 どんな質問をしても答えになっているのかよくわからないことばかり返すものだから、最初のうちは仲良くな
どんな暗闇でも光を見つめている。 それはしんどいからでも辛いからでもない。 光はそこにあると思っているからでもない。 なくても確かにあって、触れられなくても、感じているから。 ほんと? でも本当かもしれない。 楽しい時を知っている。 悲しい時を知っている。 いろいろあるのを知っている。 けんど、それが、それが欲しいのでもないし、なんだか憂鬱だし、きついし、しんどいし、けんど、楽しいし、嬉しいし、オモロいからよ! ぜんぶおらだし、ぜんぶおめーなんだな。 だからオモロい
古い建築物を巡る趣味がある。 レトロなんとかといった物の流行りがそうした感度を持つ人々にウケたこともあって、今では様々な人たちが様々な時代の建築物の情報をSNSで発信している。 かくいう私もそうした趣味人の(かなりビギナーではあれど)一人で、休日に一人散歩に出掛けてはカメラで古い建物を撮ったりしている。 元々建物を見ること自体は好きだったけれど、本格的に行くようになったのは大人になってからだ。 名建築で昼食を食べることが主題のドラマを観て、こんな世界もあるんだと分かりやす
喫茶店で珈琲を飲みます。 誰かに言われたわけではありません。 そうしたいからしているわけでもありません。 行く場所もないからです。 注文はいつも珈琲です。 美味し訳ではありません。 嫌な味じゃないからです。 なんとなくの積み重ねでできた私、その私の生活、私なりの生き方なんです。
夢の中の人はいつも外を眺めている 大きな窓の欄干に腰掛け、眩しそうに目を細めている 私は声をかけようとするが、どうしても届かない 外と内とは別の時間が流れている 子供が大人になり、そして老人になってゆく けれど欄干の人は変わらない どこか寂しそうな瞳で外を見つづけている
『あの人は今』 昼下がりの珈琲の香り 薄暗い店内 食器を洗う音 定刻を知らす鐘の音 口元に小さく咲いた笑み そうしたあの時、あの場所でのすべてを時折思い出しては忘れていく 今のあなたはそんなことなんか忘れて、きっと誰か知らない人の隣でやっぱり小さく笑っているのでしょう
大人になるまで船に乗るという機会があまりなかった。 子供の頃から乗り物自体に興味がなく。電車だとか車だとか飛行機だとか、好きな周りの男の子たちを眺めながら『ただの乗り物だろ』と思っているタイプの少年だった。 時が経ち大人になって、否が応でも移動手段で様々な乗り物に乗らざるを得なくなり『人を運ぶ乗り物』というものに面白みを抱けるようになってきた。 乗り物というのは不思議なものだ。 乗っている間に、例え寝ていたとしても自分をここではないどこかに運んでくれる。 『イマココワタ
灯りを探している。 それは僕らを隠してくれるから。 暗闇を忘れていく。 それは僕らに似てるから。 陽が落ちて、空が一層近くなる。 影に溶け込む僕らの輪郭は、曖昧に、されど着実に僕らをあるべきところに帰す。 陽が落ちてまた登って、僕らの輪郭は曖昧になり、そして明瞭になっていく。
弱気。 あまり弱気ってやつは面白いものとは捉えられないけれど、見え方によっては面白い。 うそ、そう思いたいししんどいけど、しんどさを面白いと感じたいのだ。 わたしは人を支援する仕事をしている。そうした専門職の資格を取ったし、その中で学んだ考え方や心構えを大事にしている。 高齢者や子供、障害者の支援が大まかに言えば職域なのだけれど、その分野分野にはまたその分野の専門家がいて、その専門家ゆえの欠点を修正していくのがわたしの仕事なのだ。 だから常に職場の正解と戦うことになる
先日のnoteを書いていて、コロナ禍にホットサンドを焼くことにハマったことを思い出した。 あの時期は空前のキャンプブームで、ネットやテレビを眺めていても『山を買うならどこそこ』『キャンプアイテム比較、1番いいテントは?』とかそんな話題がそこかしこにあった。 今でもそうだが、キャンプ道具を揃える財力も時間もない彼女と私は唯一気軽に買えそうかつ日常的なキャンプ道具であったホットサンドメーカを買うことに決めた。 そもそも私達はホットサンドが好きだった。サンマルクカフェの具沢山の
深夜ドラマにハマっている。 きっかけはコロナで、当時定職にもついていなかった私は永遠とNetflixで『深夜食堂』や『孤独のグルメ』を毎晩見るのが日課だった。 これといった目標もなく、されど漠然と何かをしたいという気持ちが強くあり流れゆく日々の中で少しでも誰かの人生に触れたい、そしてできれば誰かの人生に影響を与えたいと思っていた。 元々ドラマより映画派で「ドラマは端的に言いたいことが言えない人が作るもの」「映画監督になれなかった人が作るもの」といった偏見をもっていた。
栄養ドリンクをよく飲むようになった。 正確には今の業界で仕事するようになってから『飲まないと仕事がまともにできない時があるので渋々飲んでいる』という状態に至っている。 前の仕事は夜勤が当たり前で、夜勤中深夜3時を超えてくると目が霞み、意識も朦朧としてきて仕事にならなかったのだ。 今の仕事は以前ほどではないにせよ、疲れが溜まっている時などは栄養ドリンクは手放せない。 * 小学生の頃、クラブ活動や習い事に行くと試合やイベントの後にオロナミンCをもらうことがあった。ジュースや
「服が汚れるからよしなよ」 連れ合いが言葉とは裏腹に笑みを浮かべて忠告してくれる。 どうしてか昔から白いTシャツを着ている時ほど服が汚れるものを食べたくなる。喫茶店のナポリタン、イタリアンでのワイン、洋食屋のハンバーグ、そしてなんと言っても蕎麦屋での『カレーうどん』。 ふと休みの日に知らない街で気取らない地元の蕎麦屋といった風体の蕎麦屋を見つけると入ってみたくなる。 だいたい店構えがしっかりしているところは春なら旬菜蕎麦、夏ならおろし蕎麦、秋なら山菜蕎麦、冬なら鍋焼きうど