建築物は記憶を持つか
古い建築物を巡る趣味がある。
レトロなんとかといった物の流行りがそうした感度を持つ人々にウケたこともあって、今では様々な人たちが様々な時代の建築物の情報をSNSで発信している。
かくいう私もそうした趣味人の(かなりビギナーではあれど)一人で、休日に一人散歩に出掛けてはカメラで古い建物を撮ったりしている。
元々建物を見ること自体は好きだったけれど、本格的に行くようになったのは大人になってからだ。
名建築で昼食を食べることが主題のドラマを観て、こんな世界もあるんだと分かりやすく影響を受けてカメラを買い、週末の旅に出かける癖がついた。
いろんな建物を見ているとその場所その場所によって見えてくるものがある。
ここは住む人が心穏やかに静かに暮らすための家だ、とか周りに自分の暮らしぶりを伝えるために威厳のある佇まいにしてあるとか、住居ではなくとも建物にはそこでただ雨風を凌いで過ごす、だけではなくそこで何をするかどう過ごすのかが明確に見えてくるから面白い。
そうしたクライアントの要望を叶えるのが、きっと建築家でありアントニオレーモンドやジョサイアコンドル、辰野金吾なんて名前が名建築巡りをしていると自然と覚えることになる。
建築家によってデザインだけではなく構造の癖とでも言えるような明らかな違いも自然と訪問の回数が増えてくるとわかるようになるので、これが楽しい。
人の手で作り出されるものは誰かが想像して形にしたものであり、それが創造するということなのだなと建築物を見ていると感じてくる。
人に素敵だな、と思わせるものを作る人は人に対する創造力がある人だけなのだ。
そうした考えを今回は言葉でまとめてみたので、次回からはもっと楽に実際に訪れたときのことを書きたいと思います。
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