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価値観の違いは甘いものでは癒せない。

弱気。

あまり弱気ってやつは面白いものとは捉えられないけれど、見え方によっては面白い。

うそ、そう思いたいししんどいけど、しんどさを面白いと感じたいのだ。

わたしは人を支援する仕事をしている。そうした専門職の資格を取ったし、その中で学んだ考え方や心構えを大事にしている。

高齢者や子供、障害者の支援が大まかに言えば職域なのだけれど、その分野分野にはまたその分野の専門家がいて、その専門家ゆえの欠点を修正していくのがわたしの仕事なのだ。
だから常に職場の正解と戦うことになる。当たり前だ、正解のない仕事で100%正解ではないけれど良しとされいることに否を唱えなければならないのだから。

価値観ってものは大きく間違った行為よりも時に厄介だったりする。一見よく見える、目に見えることはよく見えやすいからだ。その結果後々問題が起こったとしても問題と前段階の行いとがリンクしない場合がほとんどであるからだ。

そんな中それは違うんじゃないですか?と提案したところで、よっぽど理解の人間以外は聞く耳すら持たない。

そんなときは甘いものを食べるようにしていた。学生の頃から純喫茶が好きで、そこにいる自分とは違う世界で生きる人たちの話に聞き耳を立てていると自分のいる世界の正解が不正解だったりするからだ。
甘いものを食べて頭に栄養がめぐってくると私の周囲の世界で今私が否定されていたとしても、そんなのは世間の、というよりも一歩別の場所に行ってしまえば正解になり得るからだ。
あとは知識と経験を蓄積するだけでいい。

そういう考えで仕事をしてきたわけだけれど、なかなか人の考え方や価値観は変わらないもので変えようとすれば向こうに与えるメリットよりも大きな負担をこちらが背負うことになる。
それに対応する体力が枯渇してきている。
あとはもう上手くその場で生きていくことだけを考えるようになるのだ。

これは困ったものだ。
だから価値観の違いは甘いものでは癒せない。

違いを受け入れて、ときに忘れて、たゆたうようにその場に身を任せるしかなくなる。
それもできなくなれば、また別の居場所を探すしかないのだ。

人と共に何かをすることは難しい。
みんな間違っていないし、みんな正解だからだ。だからこそ人はぶつかり続け、戦い続けている。
その中で大切なのはなんだろう。正解はない。けれど、正解じゃないのを理解した上で、目の前の人がより豊かになることを考えることが共助の第一歩なんじゃないだろうか。疲労でぼんやりした頭でそんなことをつとつと思う。

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