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やめたくても、やめられないこと

「どうしてもやめられないこと」そんなものが皆さんにはあるだろうか?

代表的なものとして、たばこや酒、色恋なんてものがすぐに浮かんでくる方も多いと思う。もしかすると推し活(アイドルやアニメキャラなど特定の個人を応援する活動)やサ活(サウナに行く活動)など〜活と昨今言われるものもこれに含まれるのかも知れない。
『東京で本読む生活』という名前で活動している人間として読書と答えられれば理想なのかもしれないが、残念ながら私はそこまで読書に執着できる人間ではない。仕事が忙しいときなどは全く本を読まなくなってしまう。

私が「やめたくても、やめられないこと」は煙草だ。多くの喫煙者が抱える問題を私も抱えている。

一度決心して禁煙を試したことがある。一年間程吸わなかったので流石にもう大丈夫だろうと思ったのだが、友人と新宿に飲みに行った際に何気なく貰いたばこをしてからまた吸うようになってしまった。私の決意などその程度のものなのだと思い知った。

それから度々禁煙したが、結局はまた吸い出している自分がいる。

なぜ煙草をやめられないのかここ最近考えていた。ニコチンの依存性というのも勿論あるだろうけれど、私の場合は煙草が一日のリズムを作っているというのもあるのかもしれない。

朝目覚めてから一本、仕事終わりに一本、こうしてブログを書いて書き終わってから一本とかなり習慣化され生活のスイッチを切り替えるのにタバコというツールを利用しているという節が思い当たる。こう書いてみると煙草は健康被害はあれど、有用な点も多いように思われる。

話は変わるが印象的な喫煙シーンとして私の心の中に思い浮かぶのはアニメ「BLACK LAGOON」のロックとレヴィの喫煙シーンだ。そのシーンについて語る前に公式サイトにあらすじが載っていたのでそれを抜粋する。

日本の商社・旭日重工の社員である岡島縁郎は、会社の機密ディスクを輸送中、南シナ海で違法な運び屋・ラグーン商会に誘拐されてしまう。自分が会社から見捨てられたことを知った岡島は、ラグーン商会のメンバーに協力することに。かくして、ラグーン商会の見習い水夫となった岡島ことロックは、仕事をこなす度、確実に悪党として覚醒していくのだった―― 悪徳の街・ロアナプラを舞台に、悪党どもが繰り広げる、スタイリッシュ&ハードボイルド・ガンアクション!   

・ブラックラグーンオフィシャルページより引用


あらすじから分かるようにブラックラグーンはいわゆる世間から見ればアウトローと呼ばれる人々を描いた作品だ。物語の大筋は、一般的と言って相違ない日本のサラリーマンであった岡島緑郎がアクシデントにより悪党の巣窟になってしまい世界の秩序から取り残された治外法権の島となっているロアナプラで「ロック」として生きていくというものだ。

はじめ岡島は自身の常識が全く通用しないロアナプラでの生活に困惑し、なんでこんなことになってしまったんだと自身の境遇を嘆き、日本に戻りたいという願いに苛まれる。しかし様々な出来事やロアナプラの人々と接する中で岡島としてではなくロアナプラの「ロック」としての視点を獲得し、初めはロアナプラの人々のことを極悪人の犯罪者、常識の通用しない人々だと思っていたが次第にそんな人々の人間性に気づいていく。また、そうした一見自分とは違うと思っていた犯罪者たちの内面に気づくことによって自分が日本で一人の人間として生きていなかったということにも気づいてゆくのだ。

資本主義社会というと大袈裟かもしれないが会社や組織で生きていく上ではその集団の倫理に従って行動することが求められるというのは、どのような人でも直面する問題のように思う。そこでは常に個人の意見ではなく総体としてのビジョンが優先され、個人はその環境下で自分の役目を全うすることについ終始してしまう。けれど、そもそも集団というのは個人の集まりなので総体の意思と個人の意思の間に時には軋轢が生じてしまうことを、社会人であれば一度は経験として知っている。時にコンフリクトと呼ばれるそれは学術的には場合によっては良い作用を与えると認められているが現実では避けるべきものとして扱われることが多いように思う。

特に日本人は争いを好まないと度々様々な媒体で言われるように集団としての「常識」というものが重要視されそれに殉じることができないと常識がないと見なされてしまう。

本当に集団の倫理に殉じないことは「常識」がないということなのか。

私は仕事で上司から言われたことに納得できないことがある度にそうした想いに駆られる。そんなフツフツとした感情に苛まれた時、私はブラックラグーンを思い出す。社会的なルールに囚われないロアナプラの人々によって「ロック」という個人としての感情を取り戻した「岡島緑郎」の物語は私を会社で働く社会人ではなく「本読む」という一人の人間に戻してくれるからだ。

この「ブラックラグーン」というアニメーションの監督は「この世界の片隅に」で知られる片渕須直監督なのだが、私はこのことを知った時ずいぶん驚いた。

私が「ブラックラグーン」を観ていたのは高校生の頃で「この世界の片隅に」を観たのは大学生の時だった。初めは同じ監督の作品だと知らずに観たのだが、アウトローの世界を描く監督と第二次世界大戦下の日本を描く監督とが自分の中で一致せず、本当にこれらが同じ監督によって作られたものなのか理解できなかった。けれど、自分が働くようになってこの作品はどちらも人間を描いた作品なのだと思うようになった。

現代の社会では、人を殴ったら犯罪である。子供でも知っていることだ。けれど、長い歴史の中で人間は争いと暴力ばかりしている。なぜそうなのかと言われればそれは人間だからだ。片渕監督の作品を観ているとそう思えてくる。人間は暴力的な生き物であるという本質を片渕作品を描いている。そしてその一方で自分と違う常識を持つ人と分かり合えるということを、暴力や争いにまみれた社会でも人は人を思うことができるということも片渕作品は描いている。「ブラックラグーン」のロックとレヴィが自分の吸う煙草で相手の煙草に火をつけるシーンや「この世界の片隅に」ですずが戦争孤児を迎え入れたシーンが象徴的で、片渕作品は人の残酷な部分(弱い部分)も人の尊い部分(強い)部分両方を見事に描いている。

人がそこにいる。本来シンプルであるはずなのに社会という合理性の中でそのことを見失ってしまった現代人に対して、片渕作品は人間の人間たる尊さを思い出させてくれる。

冒頭で私は私は煙草にも有用な点はあると思われると語ったが、あれは嘘だ。タンは出るし、疲れやすくなるし、肺癌のリスクはあがるし、依存性はあるし、煙草は最悪だ。

けれど会社の上司から納得できない理由や言い方で叱責された時などに、家で窓の外を見ながら煙草を一本吸っていると、この煙草の先に誰かが自分の吸う煙草の火で私の煙草に火をつけてくれることがあるかもしれない、そう思うのだ。

最後にこのブログを読んで面白いと思われる酔狂な方がいらっしゃったなら「ファイトクラブ」、「マッドマックス怒りのデスロード」という2つの映画も勧めておく。


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