自由とは「自分勝手にしていい」ではないし、自由とは「権利」とも違う。
「自由」という言葉を定義することは難しい。「自分勝手にすること」でもなく、「権利」でのないのだ。では、自由とは、何だろうか。
ジョン・シュチュアート・ミルは、『自由論』で、人々がある人に対して権力を行使できるのは、その人が別の人に危害を加えるのを防ぐ場合だけであるという「他者危害原理」というのを唱えた。つまり、自由とは他者の権利を守れる範囲において、自分がしたいことができること、だといえる。
つまり、「自分勝手にすること」が「自由」ではないのは、それが、他者に危害を加える行動であるとするとその行動は自由ではないからだ。例えば、包丁を自宅で振り回すことは自由だが、人込みで包丁を振り回すことは自由ではない、ということだ。
では、権利と自由は何が違うか。権利は自由であるということに加えて、危害を加えられないということも含まれる、ということだ。要は、他者に危害を加えない範囲で行動することは権利であって自由でもあるが、危害を与えられないことは権利であって自由ではない。先ほどの例でいうと、家で包丁を振り回すことは自由であり権利であるが、周りに包丁を振り回す人がいない状況が担保されていることは権利であって自由ではない、ということだ。
なぜ、危害を与えられない状況自体は自由ではないのか。
ここで、バーバリンの「積極的自由」と「消極的自由」という概念を考えてみる。積極的自由とは、自分の能力を発揮しようとする自由、と考えればいい。一方、消極的自由とは、他者の権力に従わない状態のことをいう。こう考えると、危害を与えられない状況自体は、消極的自由ではないか、と考えられる。しかし、そうではない。消極的自由とは、権力に従わない自由であって、危害を与えられない状況自体ではないのだ。つまり、例えば、家で包丁を振り回すことを法律禁じられることは消極的自由の侵害といえるが、そのような法律においても監視の目が届かないところにおいては、包丁を振り回すことは監視がなければ好きに行動できてしまう。このように何かしらの強制力が働かない状況というのは消極的自由が守られている状況だが、そのような状況にあること自体は自由なのではなく、自由が守られている状態にすぎないのだ。包丁を振り回すことを法律で禁じられていないという状況自体が自由なのではなく、他者に危害を与えないから何かしらの行動ができること、が自由なのである。
とまあ無理くり自由について論じてみたわけだが、これはあくまで個人的な見解であって、哲学的な正解ではない。もしかしたら過去に同じような考察をしている哲学者がいるかもしれないので、そうであれば、それはその人のアイデアとして受け入れたいし、批判されてきたアイデアならば、その批判は妥当なものだとして受け止めたい。
それはいいとして、まとめると、自由は「自分勝手にしていい」ということでもないし、権力によって何かから守られるというような「権利」とも違う。そのような言葉に意味があるのか、といわれると、「これは自由だ」といわれたときに、「いいえそれは自由ではなくてこうですよ、だから、こうですよ」と応えられるわけだ。例えば、「政治的発言は自由だ」という発言に対しては「いいえ、政治的発言は基本的人権で守られるけれども、ヘイトスピーチはある人々に不当な不利益をもたらすため自由ではないですよ」といえるわけである。ちなみに、基本的人権というが、基本的自由といわないのは、先に、自由と権利の違いではなしたことから分かるだろう。
以上になります。
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