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仮想通貨の発達により格差はなくなる。主観的価値が価値として認められる将来像をマルクスの貨幣論から考える。


貨幣によって価値が表現される奇妙さ


資本主義社会において、貨幣によって価値が表現されるということは自明なことだ。値札に書かれた値段がそのものの価値を意味する。しかし、それは奇妙なことでもある。人間が生み出してきた価値は、誰かにとってかけがえのないものであったり、誰かにとってはどうでもいいものなのに、そのような価値に貨幣としての価格がつけられるのだ。


例えば、私にとって長年着てきて愛着のある服は、私にとって価値は大きいが、メルカリで売っても値段がつかないほど安く設定される。


価値が主観的であるというのは、そういうことだ。それなのに、貨幣は一律に価値を価格として表現する。


客観的に数値化できる価値というものも確かにあるだろうが、基本的には個々人の主観によって価値は決まるのだ。(客観的な数値化というよりは集合的に妥当な水準=需給の均衡点ということだろう)


そう考えると、価値を価格で定めるというのはとても奇妙なことだ。


ある人はものすごく大変な思いをして10万円を稼ぐかもしれないが、ある人は大した苦労もせず100万円を稼ぐ。


貨幣の不思議をマルクスの貨幣論から考える


ここで、マルクスの余剰価値という考えをみていこう。


マルクスによれば、価値は労働によって生み出される。その労働によって生み出された価値から労働者の賃金を引いたものが余剰価値だ。つまり、1時間で2000円の商品を生み出した人の賃金が自給1000円だったとしたら、1時間に1000円の余剰価値が生み出されたことになる。


マルクスは、資本家がそのような余剰価値を貯め込むことことを「労働の搾取」だと指摘した。


マルクスは、このような搾取の仕組みがある資本主義を批判し、共産主義を主張した。共産主義体制によって搾取の構造をなくすため、余剰価値をなくし作り出された商品を皆で均等に共有しようというわけだ。


しかし、そのような運動は失敗に終わった。資本主義が余剰価値を効率的に生み出すため、共産主義よりもはるかに多くの価値が生み出され、絶対的な価値の総体は多くなり、人々の暮らしは良くなるからだ。


仮想通貨の進歩が価値の評価をどう変えるか。マルクスの理想とした社会はどう実現するか。


いま、マルクスの考えた搾取をなくす方法を再考するならば、価値を貨幣で表現しない社会という想定が現実的だろう。


貨幣をなくさずに共産主義は実現できないが、資本主義を放棄せずに豊かな社会は実現できない。このジレンマがマルクスには見切れなかったのかもしれない。


仮想通貨の普及による貨幣のない資本主義社会を想定してみよう。


現社会では、Bitcoinが暗号資産として定着し、Facebookは「リブラ」を中国は「デジタル人民元」を仮想通貨として打ち出した。


このような、価値を表現する新しい技術の進展により、主観的な価値を表現できる可能性が現実味を帯びてきたのだ。


つまり、例えば、私が愛着のある服だけで今後10年間生活すること自体に価値の定量化をするができるようになる、ということだ。


少し論理が飛躍してしまったが、仮想通貨によってすべての商品の取引が行われている社会を創造してみよう。


そのような社会では、通貨の担保はその人自身の存在ということになる。なぜなら、その人が保有している仮想通貨の潜在的な価値はその人自身の存在に紐づいているからだ。現在でもそうではないか、との批判もあると思う。確かにそうだ。しかし、仮想通貨とは現金ではない。

仮想的にその人自身の存在に紐づくため、私が10年以上同じ服を着ているという物持ちの良さ自体に貨幣価値が紐づくのだ。


イメージが湧きづらいかもしれないが、仮想通貨がその人の存在自体に紐づいているということは、その人が生み出す潜在的な価値に対して仮想通貨の一部が割り当てられるということだ。


つまり、例えば、いま現在、Uber eatsで効率的に出前を運べる人には多くの賃金が払われる。仮想通貨が通貨としてすべての人に共有されれば、そのような出前の実績自体が担保となり個人に仮想通貨保有量が割り当てられるのだ。さらに、例えば、その人が健康に気を使っていて事故を起こさないような運転の仕方であると判断されれば、その人の保有する仮想通貨が10万円分しかなかったとしても、審査なしに容易にルンバ(15万円ほど?)を購入できるということだ。


このようなその人自身が融資の担保になるということは、確かに現在でも行われることだ。しかし、仮想通貨が支配的になりデジタル技術が発展すれば、融資の流動性や正確性は格段に上がるだろう。


さらに、その人のもつ潜在的な価値に対して仮想通貨が割り当てられるということは、主観的な価値に対して仮想通貨が割り当てられることも意味する。つまり、いまは、愛着のある服にはほとんど価値はないが、その人自身の活動を効率的に行うという評価がなされるため、愛着のある古い衣類のような主観的な価値に対しても、仮想通貨に紐づいた価値の定量化が行われるのだ。


価値の定量化の深化が意味すること:流動性の高まりと貯蓄の不可能性、主観的価値の価値づけ


よって、主観的な価値に資産的な価値が認められるため、価値の定量化は深化する。価値の定量化とは、今まで価格がつけられなかったものにも価値が認められ定量化されるのだ。

想像力が豊かな人は、このような価値の定量化の深化は非常に残酷な話だと思うかもしれない。その人にとって大事なものの価値は、その人にとって価値の比重が大きくなるのであって社会的にはその価値は相対的には小さいかもしれないのだ。それは圧倒的な格差社会を生み出すかもしれない。


しかし、私は、仮想通貨の発達は、そのような格差社会を生むとは考えていない。主観的な価値の大きなものに価値の分配が図られると予想するからだ。


つまり、現在は、大金持ちの資産は貯め込まれているが、価値の流動性が深化した社会においては、資産は貯め込まれない。なぜ資産を貯め込めないか。それは、その人自身の存在に仮想通貨が紐づいているからだ。貨幣的価値は大きいが本質的な価値が小さいものから、貨幣的価値は小さいが本来的な価値が大きいものに、仮想通貨としての価値が流動するのだ。

例えば、今、大金持ちが10兆円の現金をもっているとする。しかし、仮想通貨が支配的になって社会においては、そのような10兆円の現金自体には価値が認められない。代わりに、大金持ちが生み出す価値とその可能性に対して仮想通貨が割り当てられる。割り当てられた仮想通貨を使わなければ、余剰価値が生まれる。つまり、人々は生み出した価値や将来生み出すであろう価値に対して仮想通貨が割り当てられるが、使う分以外の仮想通貨がその人に貯蓄されるわけではない。莫大な価値を生み出す人は、たくさんの仮想通貨を使うことができるが、使わないこともできる。そして、重要なことは、その使わなかった分は貯蓄ができないのだ。ただ、その人の存在に紐づけられるだけだからだ。

よって、大金持ちの現金10兆円は、本来認められるべき主観的な価値に対して価値として流動することになる。これが本来あるべき所得の再分配であって、政府の裁量に基づくことなく所得が流動的に振り分けられるのだ。


余剰価値がどう流動するか考えてみよう。


使われない余剰価値は、過小評価されている人々に流動する。主観的な価値が過小評価されている人とはどのような人か。それは、病気で動けなくなった人かもしれないし、両親を介護する人かもしれない。なぜか。それは、そのような生きとし生ける人々自体に主観的価値が認められるからだ。これは確かに残酷かもしれない。誰にも悲しまれずになくなる人よりも、惜しまれつつ亡くなる人に仮想通貨が流れていくのだ。しかし、このような残酷さは、所得の再分配にとっての必然だ。価値は絶対だ。宇宙人であろうが、価値が大切だ。誰にも悲しまれることのない人は価値が少ないが、生きとし生ける人としての価値はある。


改めて価値について


認識する存在全ては価値を求める。


動物が痛みから逃れようとするのも彼らにとっての価値だし、人が生を求めることもその人にとって価値だ。


価値が存在を支配している。


仮想通貨の普及は、所得格差を生み出した「貨幣の支配」から、本来あるべき「価値の支配」に我々を誘うだろう。


このような社会の到来がいつになるだろうか。すぐにでも達成されてほしいと願っている。



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鈴木寛太|思考の基礎を「読解力」と「議論」から
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