逃避、思考、行き着く先は?

私は逃げている。
何から逃げているか?現実から逃げている。
社会の中で「生活」するために必要なことに立ち向かうことから逃げている。
両親は仕事へ、妹は学校へ、毎朝起きると家には猫以外誰もいない。
特に何をするでもない。本を読んだり物を書いたり。こんな毎日はかつて中学生や高校生だった私にとって羨望の日々だったに違いない。
毎日テストや課題のことばかり考えていたし、大嫌いな数学も泣きながら必死に解いていたような学生だったから、毎日が休みならばどんなに幸せだろうかとよく思ったものだ。
毎日が休み、おまけに曜日感覚も失われつつある今の私は、十分に休日を謳歌しているだろうか。否、何だかもやもやしてたまらないのだ。映画を観ていても、本を読んでいても、絵を描いていても、ううん、これが一体何になるんだろうか、と繰り返し思う。まるで雲を掴んでいるような空虚さに襲われる。夜は寝る前に、「発作」がおこる。陰鬱の全てが頭を覆って、居た堪れなくさせる。腹の底がむず痒くなって、目から涙が出る。寝付けなくなって、結局また遅く起きることになる。

さみしいんだ。誰かに手を握って欲しいや
情けないんだ。一生懸命働く老いた両親と体力を持て余す私が
羨ましいんだ。自分のやりたいことをしている人
焦っているんだ。もうそろそろ自立しなきゃいけないのか
分からないんだ。どうやって生きればいいか

こんなのは多分もう三年くらい同じように繰り返していることだ。
だから、もうばかばかしくなって愛想を尽かしている自分もいるんだ。
最近わかったことは、自己を捨てることの大切さ。
私は自分が知らない世界、知らない人に興味はあるが、それらと実際に触れることに躊躇してしまう。なぜかというと、絶えず自己を意識するから。彼にとって私はどう見えているだろうか、このコミュニティの中で私はどう思われているだろうか。
こうやって自分を気にしてばかりいた。馬鹿馬鹿しいよね!うん、馬鹿馬鹿しい。ずっとこうしているとだんだん自分の興味関心が離れていってしまうことがやっとわかったのだ。

でも厳密に言えば、自己を捨てることなんてできないだろう。そもそも自己とは何なのか誰も説明ができないからだ。ほんのかじった程度だが、西洋哲学を知るうちに、私は何だか輪をかけて理屈っぽくなったような気がする。本を読み、哲学者の言葉に関心する。自分と照らし合わせてみる。それで自分を何とか納得させようとする。所詮、私が試みてきたことは認識論である。それで得た一つの「真理」は、川が岩を浸食していくように、私の心からいつの日か消えてしまうのだ。
留学先で出会った同級生が、もう俺は哲学は十分だから、今は音楽をやりたい。と言った意味が今になってわかる気がしている。

ベルクソンか誰だか、変化しないものはこの世にはないと言った。
私のこの陰鬱ルーティーンも変わっていくのだろうか。
最近はそういうわけで、自己存在や思考から距離を置くため、仏教や瞑想に興味が出てきた。
手始めに手塚治虫のブッダを読んでいる。
それから、夏休みに京都で見た、空也像が頭から離れない。
確か空也は踊って唱える、踊念仏の人だった。



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