鹿島槍天狗尾根遭難を総括する(遭難)(原文)①
学習院大学山岳部 昭和34年卒 右川清夫
はじめに
鹿島槍天狗尾根で4人の仲間を失った。 私共山岳部OBを含む関係者による捜索活動が、二重遭難の危険を恐れて、打ち切りを決定したとき。 ご遺族がやりきれないお気持ちを周囲の関係者にぶつけられた時の情景は、すでに60年を過ぎた私の脳裏に焼き付いて離れない。 其れを想うとこの遭難を冷徹に総括する立場にある自分に果して、その資格があるのか疑いたくなる。
この山行きは、それぞれの家庭の事情で2年部員の芳賀孝郎、藤井昭孝、右川清夫が参加できなかったことへの悔いも残る。
しかし遭難を次の世代に誤りを引き継がないために、その原因追究は、心を鬼にして伝えていかねばならない。
この遭難は目撃者のいない遭難である。 遭難の状況は、同じパーテイーでテントキーパーとして残った小谷明氏によって、報告されてきたものによってである。 が発生から55年経過した、平成22年(2010年)7月25日の座談会で初めて語られたことに、4人が出発して程なく、大雪崩によるものであろう大音響を聞いたという発言を得た。 そのことが、この遭難は大雪崩に遭遇したことが原因であったことが判明した。
昭和30年12月24日、鈴木廸明リーダー以下8名の部員が離京。 25日、早朝大町駅下車。 雪はなく、秋山の状態であった。 バスで源汲へ。 大川沢、大冷沢出会いの二股小屋(ベースハウスとした)へ入る。 間近かに臨む雪の鹿島槍連山は、冬の弱い落日に映え、茜色が薄紫に刻々と変わってゆく。
26日
東尾根に3名、小峰顕一、江間俊一、石滝英明。
天狗尾根に鈴木廸明、鈴木弘二、藤原荘一、清水善之、小谷明の5名が向かった。 両尾根隊ともに、約1900m付近に物資をデポし、BHに戻った。 冬山としては雪が少なく、ブッシュの急斜面はきつかった。
27日 (半晴れ)
BHより残り半分の荷物を持ち、デポ地点へ。 さらに第一クロワール、第二クロワールを越えて天狗の鼻(2350m)へ。 日没前にC1を設営した。
天幕設営中に天候が激変、強風に加えて猛烈な降雪。 余りに短時間の急変と気温の低下に、小谷は恐怖を感じたと言っている。
28日(ガスと風雪)
日本海沿岸に寒冷前線が接近、見通しが効かぬ強風雪になり、4人は一日中、天幕周りの除雪を続け、積雪に潰されないためテントを移設する。
29日
風雪激しくデポ食糧を荷上げする予定だったが、それどころでなく、強風を避け雪が吹きたまらぬ場所に再び天幕を張りなおすなど、対策に一日を費やした。 付近に設営していた専修大学山岳部の4名は11時過ぎに撤収、胸までのもぐるラッセルで大雪の中を泳ぐように下って行く姿を小谷は見ている。 だが、ベースキャンプにたどり着くことができずビバーク。 30日夕刻、宮田久男氏(21)が凍死している。
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