「折々の」NO.63
「折々の」NO.63(2024年11月1日発行)を橘しのぶ様よりご恵送いただいた。誌名通り、詩人たちのその時その時の感慨が、選び抜かれた言葉で詩に紡がれている。
ストレートに胸にしみとおる詩ばかりで、読後深い感動に包まれた。普遍的な感情の吐露に大いに共感し、胸の内をぐるぐると渦巻きつかえていた己の思いを代弁してくれたかのようで、清々しささえ感じた。
特に印象深く刻まれた作品について愚見を述べたいと思う。大先輩の方々の作品を拝してのひよっこの失礼極まりない感想、どうか大目に見てお許しいただきたい。
瀬尾薫氏「たぶん」…ネット上でしか知り得ないあなたのつぶやき、「極微糖のマシュマロのような」とはなんと素敵な表現だろう。「慎重に慎重に…」「愚痴めかない…」「しばしば云いよどむ」あなたのつぶやきが、強いながらも「前向き」であることは、ネット社会に居心地の悪さを感じながら生きる私の心を、斯様でありたいとの願いでふんわり包んでくれた。哀しみやよろこびのあとに「意味をつれてもどって」きてほしい…「たぶん」でしか推し量れないネットのつぶやき、一つの救いの光を見せてくれる作品だった。
伊達悦子氏「橋で」…1連から引きつけられた。一匹のショウリョウバッタ、日傘をぎゅっと握る作者。
飛べなかった哀れなバッタ、儚い命が葉っぱの亡骸と橋から落ちゆく様子は、己自身が小さなバッタであり、欄干にさよならする身であるような錯覚を覚えた。儚い命を共に生きるちっぽけな存在である私たち…。生き生きと気ままな小学生や風と、バッタの対比…橋の上の束の間の生死の物語はこの世の理不尽な生死の縮図でもあることに気付かされる。
万亀佳子氏「ふたり」…これ程までに印象的な多種多様な「こつこつ」を私は知らない。「咳き込んでいる」私は1人だが、2行目から「こつこつ」と2人の静かな日常が語られる。おそらくは2人きりで暮らす老夫婦…割れ鍋に綴じ蓋的夫婦の息の合った掛け合いは、同じ歩調で歩む「こつこつ」という靴音にも思われる。素敵な詩である。
橘しのぶ氏「径」…あかいボンネットのサクラビスク。橘氏の手にかかれば、生死の狭間を漂うような特有の不気味さを帯びながら、人形は息をし始めるに決まっている。
少女の橘氏はお人形を人形として扱っていない。生きた人の形として愛でているように感じる。
毀れたゆめは…大人になった少女に引き継がれる。人形の胸の瑕は、ひとり歩んできた少女が抱き続けたさびしさ、痛みの象徴であろう。人形が流していた血は雛罌粟の群生にかつての少女を誘う。雛罌粟の花の「あかい」はピアノの上にあった人形のボンネットの色でもある。人形と私、一緒に居たい2人は、共に目には見えぬ血を流し、その結晶はあかい雛罌粟として咲いたのであろうか。雛罌粟はキリストの血から生えたという伝説、虞美人の伝説をもふと思い起こされた。
「径」とはまっすぐな道、細い道を指すらしい。詩の中に己の少女を咲かせ続ける橘氏は、痛みを抱えながら、これからもあかい花を摘み続けるのだろう。その結晶を紡ぎ、ファンに届けていただけるよう願っている。
『水栽培の猫』以来の密かなファンにとって、橘ワールドにどっぷり浸かれる印象深い詩であった。雛罌粟の激しくも静謐な赤さと薄葉を重ねたような花弁は橘氏自身のimage として、読後数日が経た今も強い余韻を残している。