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タバコを吸わない人がタバコ臭に抱く嫌悪感の質を知ってしまうとたぶん誰もタバコを吸う気にはならないと思う

ひところ「禁煙ファシズム」という珍妙な言葉が世の一部で流行し、なかば反動的な調子で「吸う権利も認めろ」「受動喫煙防止対策は喫煙者への弾圧だ」「こうした健康崇拝はナチズムを思わせる」なんて声を荒らげる人たちが結構いた。というか喫煙をめぐってのこうした分かりやすくて俗っぽい「論争」は不思議なもので、誰もが「自分こそ被害者」といったスタンスを取る。いきおい喫煙者と非喫煙者の間の「断絶」がますます強く感じられるようになる。
いまさら繰り返す必要はないけども、周囲に他者がいる限り喫煙行為はつねに加害行為となりうるのであって、その行為によってもたらされる実際の害悪を何らかの法律や教育によって緩和すべきなのは「当然」のことだ。「肩の狭さ」を感じずにはいられないといまだに嘆いている喫煙者は、まず自分の加害者性を自覚することから始めないといけない。いままでどれくらい周りの人を「嫌な思い」にさせてきたか。呼吸器官にダメージを与えてきたか。軽い頭痛を引き起こして来たか。人はとかく加害者意識よりも被害者意識に浸りたがる生き物なので、自分がこれまで知らず知らずのうちに与えてきたおびただしい危害について考えることはひじょうに苦しいことだとは思う。しかしおのれの加害性を直視しなければ到達できない「叡智」もあるのだ。むしろこれまで周囲の体質的嫌煙者に一度も殴られなかったことを幸運と思わねばならない(それくらい激しく嫌がられている場合が多い。喫煙者当人は気づいていないかも知れないが)。
喫煙というこの趣味的な行為(やってもやらなくても自身の生存には全然関わらないこと)がまったくの人畜無害で、他の誰をも不快にさせないのなら、「どこでも自由に吸う権利」を主張することは「正しい」。しかし、タバコの煙の与える様々の実害やそれへの切実な嫌悪感情が「社会的懸案」と認識されて久しい現在にあって、そうした旧態依然の「権利主張」は野蛮のそしりを免れえないだろう。道行く人たちに唾や痰をかけるのが趣味だという人間が「唾や痰を人にかけさせる自由も認めろ」と主張するのにそれは似ている。それが趣味的加害行為である限り、「せめてここではそれをするな」といった禁止対象になるのは理の当然だ。
タバコを供給している会社が元国営であるとか、タバコはとても古い時代からあるだとか、タバコを買うことで国や地方に税金を払っているとか、そんなことが他者に危害を加えてもいい理由を構成しえないことは言うまでもない。いまだ紙巻きタバコが主流で、「受動喫煙」の光景が当たり前のように見られる当今、「被害者」はどう考えても非喫煙者側である。「タバコを吸う際の配慮義務」をなにかと求められる喫煙者がときどき自分を被害者のように見立てる理由が、私にはぜんぜん分からない。
喫煙者は非喫煙者に気を遣ってばかりいるなんて嘆いてみせる喫煙者がよくいるけれど、非喫煙者もまた同じくらい喫煙者に気を遣っているのですよ。「タバコ吸っていい?」とさりげなく聞かれ「私はタバコ吸わないけど全然平気なので気にしないで」なんてほほ笑みながらも内心で激しく舌打ちしている人間が、世の中には結構いると思う。「だめ」なんて即答すると「空気」が変になるでしょう。すくなくとも日本の平均的人間関係においては。もっとも「吸っていい?」なんて聞くだけマシなのだ。たいていは気が付いたら吸っている。相手が上司や先輩、ワガママで短気な父親ややっと見つけた恋人だったとして、「私の前では吸うな」ときっぱり言える人なんてそうはいない。さしあたり人間関係にヒビをいれたくないが為に「タバコ平気」を演じざるを得ないそんな人々の葛藤のことを思うと、私は憂鬱になる。なけなしの「義憤」も頭をもたげてくる。
賃貸共同住宅においては愛煙家がいかに細心の注意を傾けたところでその煙の「被害者」はたいてい出てしまう。窓をぜんぶ締め切っているのになぜかそこはかとなくヤニ臭さを感じることがある。そして部屋中をくんくん嗅ぎまわっているうち、そのヤニ臭さがコンセントの穴から漏れ出ていることを発見する。仕切りはあっても空間はどこかで必ず繋がっているという事実をこうして知ってしまうのだ。それだから浴室の換気扇などを付けると隣室に漂う紫煙がこちらに流れてくる。なぜここまで具体的に描写できるかというと、これこそがいまの私が置かれている不愉快きわまる現状だからだ。
ご存じの通り、タバコの残存臭というのはいわゆる副流煙とはくらべものにならないほどの「不潔臭」がする。時間経過に比例してタバコ臭はますます耐え難いものになる。人によっては頭痛や吐き気を催し、嫌悪感を通り越し殺意さえ抱くほどだ。
へヴィ-スモーカーの部屋の壁はたいがいタールか何かがえげつないほどに付着し黒ずんでいる(あるいは黄ばんでいる)。そんなヤニ部屋全体が醸し出す地獄のような空気がよもや隣室に侵入しているとは、いかに配慮しているつもりの喫煙者もさすがに想像しないだろう。
私は小児喘息だったからか、喫煙者のそうした無自覚的加害性を幼いころから憎み、恨んできた。だからいまも喫煙者特有のあの体臭が苦手だ。でもそんな彼彼女らをいっぽう的に「断罪」することは不毛であり、そんなことをいくら続けても何も変わらないだろう。どんな問題であれ加害者の鈍感さの原因を当人にのみ求めることは出来ないのだ。
だからとりあえず「一人一殺」作戦ということで、自分の周りにいる喫煙者にその加害性を深く意識させることから始めた。鬱陶しがられることは承知で。なんとなく子供をつくってしまうような人々にも言えることなのだけど、自分が「暴力」や「危害」の主体であるという自覚を持つことは、実に難しいことなのだ。動物の肉を食うたびに自分の業の深さを痛感し身を引き裂かれる思いになることは確かに過酷なことかも知れない。しかし生存していることになんの「罪責感」も抱かない人間はただの「精神なき鬼畜」である。いますぐアルパカにでも食われたほうがいいのだ。
かりにある喫煙者が配慮精神に満ち溢れた聖人的人物であってもその煙によって危害を被る人間がどこかに「ほぼ必ず」いる。そんなふうにはどうしても思えないとしたらそれは、危害を受けた人間がいちいち被害を伝えないからだ。完璧に外部から遮断された喫煙ルームか山奥の一軒家でもないかぎり、喫煙行為は、他者の身心を「ほぼ必ず」害する。煙は流動性が高すぎる。地上の空気はいつも流れている。どこで誰がその煙を吸い込んでしまうか予想出来ない。ほとんどの喫煙者は喫煙という行為に内在するこの暴力性に無頓着過ぎる。
いっぽう「酒タバコ」などと一緒に並べられることの多い「酒」についてはどうだろう。ある人が紳士的に黙ってグラスをかたむけている限り、そこに加害性は無い。他人を不快な気持ちにさせない。生命力を奪わない。他人の心身を害さない。ただマクロな視点で見ると、「酒による危害」も無視してはならないと思えてくる。こんな「社会的費用」にまつわる議論をやりだすと、ゴルフ場や自動車や集約畜産なんかも対象にしなければ気が収まらなくなる。
いまの時点で私は、タバコは売るべきではないが、酒は売ってもいいと思っている。酒飲みとしてのバイアスが相当かかっているかな。まあいいや。

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