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ボルガ博士、お許しください

私は「チャージマン研」という前衛アニメのファンで、二、三年に一度は全作品を必ず視る。視るたびに、「笑われること」と「笑わせること」の違いなんかどうでもいいことじゃないか、という気になる。ことによると、あの雑な作画や無茶苦茶な物語展開は全てギャグであって、粗探しをしては大笑いしている我々は「計算通り」に笑わされているのだ、とそんなことを考えてしまう。

ものを創る人間はまったく侮れないのDA

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「生き甲斐」なんてものを必要としなければならない人間たちの不幸。

「ありのままに生きる」なんて呪文を言わされている人間たちの不幸。

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読書の快楽を知らない人間は往々にして孤独耐性が低い。私は本さえあれば三か月くらい誰とも会わなくても平気だけど、本がなかったらたぶん発狂している。なるほど「本は友達」です。ところで、本以外に友達を持たない人間と、本という友達を持たない人間とでは、どちらが不幸ですか。いや、愚問だってことくらい承知してますよ。

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人の世には「優しい迫害」としか言えない様なものが確実にある。「あなたのために言ってるんだよ」「でも苦しいのはみんな一緒だよね」といった利他的もしくは説諭的の調子で「他者の過ち」を糾弾して止まない人々。身近にいるその人が自殺なんかした時にようやく「あんなに追い詰めなければよかった」と悔恨に苛まれる人々。そのような迫害的圧力を感じない日を私はほとんど持たない。私にとって「生きる」ということは、故なき負債感情を常に供給され続けるということなのだ。

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去年、東京証券取引所のシステム障害で社長が深刻な面持ちで頭を下げている姿を見た。あの程度の光景にはもはや誰も異様の感を抱かない。たかが株式銘柄の売買が終日停止したくらいで一体何なのだろう。「ごめんね、ちょっとマシンがいかれたみたい」と舌を出して照れ笑いでもしていれば済む程度の出来事にしか思えませんけどね。あのシステム障害で誰か死んだのですか。皮肉でもなんでもなくて、ほんとうに私は不思議に思っているのです。

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いかなるときでも私は「厭世的」でない人間を心から信用することが出来なかった。「厭世的」であることは私のうちなる絶対的モラルだった。「苦しみのない人生なんか詰まらないよ」なんて空けたオシャベリを私は心から憎んだ。

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文学とはこうあるべきだ、というスタンスくらい文学から縁遠いものはない。私もついよくやってしまうんだけどね。がんらい何でもありの文学になにゆえ人は狭小なる枠組みを与えたがるのか。たぶん文学による無際限の自由への悪魔的誘惑に、ケツの穴の小さい人間ども堪えらないのだろう。だから、果てしのない沙漠を放浪することより、公園の安全な砂場で選ぶことを選ぶ。

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「次に生まれ変わるなら男がいい?女がいい?」という定番の問い掛けがある。私は「性別」という分類が気持ち悪くて仕方ないし、そもそも私は何ものとしても存在したくない。

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自分が間接的直接的にのべつ関与している「暴力」に過敏であり続けることは、過酷なことだ。動物の肉を食うときに屠殺される家畜の姿を思い浮かべ、安い製品を購入するたびに搾取されている低賃金労働者を連想し、「子供をつくる」という判断を下す度にその子供が生涯に被る苦痛の質・量に溜息をもらす、ということは過酷なことだ。「倫理である」ということは、こうした種々の過酷さに押しつぶされるということでもあるはずなのだ。

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幸せな家庭はいずれも似通ってグロテスクだが、不幸せな家庭はいずれもそれぞれ違ってグロテスクである。

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「子育て応援」とか「受験生応援」という謳い文句は商品経済の世界にありふれているが、「ホームレス応援」とか「非正規労働者応援」とかいう謳い文句は存在しない。彼彼女らも「消費者」に違いないからあってもおかしくないのに、私は聞いたことがない。

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自分のワガママには甘く、他人のワガママにも甘い。

そういうものに、私はなりたい。

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