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2022年、ふたつの「芝浜」 | むかし家今松師匠と五街道雲助師匠

年の瀬に駆け足でnoteを更新中ですが、すでに2022年の落語納めを済ませてまいりました。今年の落語納めは、むかし家今松師匠の「芝浜」。

その4日前に五街道雲助師匠の「芝浜」を聴いていて、ともに十代目金原亭馬生の弟子でもあるおふたりの、それぞれの「芝浜」にふつふつと感じることがあったので、自分用の記録として書き留めておきます。

同門下のお二人でも、「芝浜」の元の型(と呼んでいいのかな?)はおそらく違っていて。特に、今松師匠のパターンは初めて聴きました。
先代の馬生師匠はどうだったのだろう? と音声を聴いてみたら、今松師匠は主に先代の型を引き継いでいらっしゃるのですね。


今松師匠の「芝浜」

女房の「お前さん、起きとくれよ」からは始まらず、冒頭から、熊五郎が自ら「働かなくては」という決意を見せる「芝浜」。
酒でお客をしくじっては不貞腐れ、また酒に逃げるという悪循環。生活が立ち行かなくなっていくことで、熊五郎なりに危機感を抱く、その経緯が敷かれていく。

今松師匠の熊さんは、「働かなくちゃ」とはわかっていて、でもなかなかそうできない自分に、最初からジレンマを抱えているようだった。

それが「芝の浜で財布を拾ったのは夢だった」と思い込む理由にもつながっていて。
このままではまずいとわかっているのに、酒へ依存することをやめられず、熊さん自身が「自分はどこかおかしくなっているんじゃないか」という不安と隣り合わせでいたからこそ、この展開が成立するようになっていた。

単純に「昔から妙にはっきりとした夢を見る」とか「やたら素直な性質」とかでは片付けず、熊さんの心理状態をより掘り下げて描かれていて、今松師匠の登場人物への寄り添い方(なのか、噺の辻褄に対する観察眼なのか、その両方か)って、現代的で、──なんだろう、視点の置き方が、落語の、虚構の世界にとどまらないというか。わたしが使っても分不相応でない言葉ではまだうまく表現できないけれど、とにかく、味わいが他のかたのものとは全く違うと感じている。

思えば「心中時雨傘」を聴いたときにも同じようなことを感じて、いたく感動したのだった。

雲助師匠の「芝浜」

女房の「お前さん、起きとくれよ」から始まる、わたしにとっては定番のほうの「芝浜」。

雲助師匠のご実家が商売をなさっていたからなのか、下町の年の瀬からお正月までの描写が風情たっぷりに描かれていて、眼前に広がる架空の風景がなんとも楽しい。
現代ではもう見られない風習もあるからこそ、その描写の細かさに、かえって想像のなかの江戸が蜃気楼のように立ち上がっていく感覚がある。

今回特に思ったのは、雲助師匠の女房がとてつもなく「いい女」だということ。
勝五郎(たしか「勝」だった)が出かけるときには切り火を切って送り出してくれるし、3年後の告白を経て、勝つぁんに酌をするときも、実に嬉しそうな表情で注いでくれる。
ふたりが惚れ合って一緒にいるのがよくわかって、「女房は古い方がいい」のまさしく、理想の女房像だなという感じがする。

風景描写から蜃気楼が立ち上がって、そのなかに映る、すべてが理想的な、夢のような世界。
雲助師匠は、下手したら一気にウソに転じてしまいそうな虚構の世界を、まじり気のない夢として見せ、観る側をその世界に浸らせてくれる。

「芝浜」にかぎらず、師匠の「初霜」や「夜鷹そば屋」で胸の奥がじんわりと熱くなるのは、雲助師匠の描く夢がとても美しいからだと、わたしは思っている。

働くことへの意思

今松師匠のリアルと、雲助師匠の夢。
抱いた印象としては真逆なのかもしれないけど、共通して好きだなぁと思ったところが、熊(勝)さんの働くことに対する気持ちのなかみ。

「ラクしたいなら、稼がなきゃいけなかったんだよな」
「ラクしたければ、働けばよかったんだよな」

「芝浜」で、こうした台詞に出会うと、なんだか嬉しい。ああ来年も頑張ろうと、背筋が伸びるような心持ちになる。

物語の展開上、熊(勝)さんが最終的に心を入れ替えて一所懸命働くのは、どの演者さんでも同じと思うのだけど、今松師匠版も、雲助師匠版も、熊(勝)さんの稼業に対する思いが覗く瞬間があって、それが両師匠の説得力につながっているような気がする。
そして、その表現に対する師匠方の実感をも受けとったような気がして、とても清々しい気持ちになったのである。

酒浸りの体で、まだ暗く寒いなか嫌々向かった芝の浜に、潮の匂い、ひんやりとした朝の河岸の空気を久しぶりに感じて、ふと「(自分が)好きでなった稼業」だと思い出すのは、雲助師匠版。
今松師匠にいたっては、「働けるうちは働く。それが唯一の道楽みたいなもんだ」と言うまで、3年後の熊さんの気持ちが変容している。

「お前さんが仕事に行ってくれないと釜の蓋が開かないんだよ」という台詞の通り、熊(勝)さんは一家の大黒柱で、働くことを当たり前に期待されている。家族のために働くことが「役割」である。

この時代の人たちは、それを疑問の余地なく受け入れているのかもしれないけれど、「まじめに働くことが当然」だから、養わなければならない家族がいるから、家族のために「犠牲」になっているのではなくて、本人がそれに「喜び」を見出しているということに、なんだか救われる気持ちになる。

「芝浜」は、「夫婦の物語」だと言われるのをよく聞く。けれど、わたしにとっては、最初に出会った白酒版そして雲助版を聴いた時からずっと、「働くこと」の噺でも、あった。
勤労の美徳を称える云々とかでなくて、ただ、聞き手であるわたしが「働くこと」への気持ちをととのえる噺。

今年新しく出会うことのできた今松師匠版は、「ちゃんと働かないと」の焦燥感から始まり、のちに、熊さんが義務としての「働くこと」を超えて、本人にとっての意義を見出せたように感じられた。
どうにかしてやり直したい、けど一人ではどうにもならなかった、そんな熊さんの人生に主軸が置かれている「芝浜」だった。

ふたりの師匠の、人間へのまなざし

少し話は変わるのだけれど。
とある別の師匠の随談を聞いていて、噺家さんという稼業は、(表面のポーズがどうであれ)根っこの部分で人間が好きでないと務まらないご商売なのではないか、と感じていた。

こんなことを言うのは甚だ野暮かもしれないが、今松師匠の落語にも、雲助師匠の落語にも、根底に人間存在への愛情が流れていると感じることがある。
ただ、今回両師匠の「芝浜」を続けて聴いて、人間に向けるまなざしの種類は少し異なっているようにも思えた(当たり前の話なのだが)。

雲助師匠には、人間そのものへの深い信頼をより強く感じる。
今松師匠には、物質的であれ内面的であれ、弱くしかいられない人たちを、決して取りこぼそうとはしまいという優しさと信念を感じる。

すべてわたしの勝手な感覚に過ぎないので、もし師匠たちのファンの方がこれをお読みになるようなことがあったら「何言ってんだか」と笑われてしまうかもしれない。

けど、少なくとも、これまでわたしが「後生鰻」や「一文笛」などのシニカルな噺を今松師匠で聴いたときに、思わずギクリとした感覚の正体がなんだったのか、わかったような気がする。
上っ面の態度を示すことで、何かを果たした気になってはいまいか。もっともらしく己が意見を主張する裏で、じつは言葉で遊んでいるにすぎないのではないか……。おそらく、そういうことを突きつけられている気持ちになっていたのだと、腑に落ちた。今松師匠の言葉は、そういう力がある。

* * *

このnoteを書きながら、おふたりの高座をあらためて思い出していて、だんだんあの時間すら夢だったのではないか、という気持ちになっている。

どちらの師匠の「芝浜」もとても良い噺だったけど、ごく自然体に見えて。それこそが師匠方が長年積み重ねた芸と、人としての年輪の成せる業なのだと思う。あらためて、あの時間を、胸の奥に深く刻みたい。

余談だが、今回おふたりの「芝浜」を聴き比べたのをきっかけに、先代馬生のものも聴いてみたら、圧倒的に「夫婦の物語」という印象を受けたのも、すごく面白かった。「恋女房」という言葉がこんなにストンと落ちてくるのも、またすごい。



わたしには特別「芝浜」が好きとか、年末には絶対聞かなきゃ気が済まないという気持ちはないのですが、今回、こんなにも演者さんによってグラデーションの出方が変わってくるんだと感じて、選り好みせずに、もっといろいろな方の「芝浜」を聞いてみたくなりました。

なんとなく人情噺がネタ出しされていると、「わざわざ良い話を聞きに行きます」みたいなことに対する照れ臭さがあって避けていたんですけど(ひねくれすぎでは)、季節ものだし、来年はもっと積極的に聴きに行けたらいいなと思います。

あ〜、、ちょっと今年の年末、なんなの。すごい時間だった……。


公演記録

むかし家今松芝浜の会

三遊亭まんと ぞろぞろ
柳家小ふね  粗忽長屋
むかし家今松 居残り佐平次
〜仲入り
林家あずみ
むかし家今松 芝浜

20221228
深川江戸資料館 小劇場

雲助鯉昇二人会

鈴々舎美馬 金明竹
五街道雲助 蔵前駕籠
瀧川鯉昇  へっつい幽霊
〜仲入り
鯉昇 粗忽の釘
雲助 芝浜

20221224
日本橋社会教育会館ホール

👇この会の他の感想(「芝浜」についても触れています)

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