実家が全焼したサノ
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間違えてVIP待遇を受けた話
こんにちは。
実家が全焼したサノです。
もう何年も前の話ですが、
大阪に住んでいた頃、
当時お付き合いしていた彼女と、
リッツカールトンという
高級ホテルに宿泊したことがありました。
当時の僕はお金に余裕が無く、
かなり背伸びをしてホテルを選んだので、
予約した部屋は1番安い部屋でした。
立派な部屋でないことは
彼女にあらかじめ伝えていたものの、
それでも目を輝かせて喜んでくれました。
僕
カジノで感情を失った友人の話
こんにちは。
実家が全焼したサノです。
僕は数か月前から、
ポーカーをやり始めました。
まだルールを覚えたばかりですが、
オンラインゲームでは、
少しずつ勝てるようになりました。
そして先日、僕とほぼ同時期に
ポーカーをはじめた友人と、
アミューズメントカジノ
(お金を賭けないカジノ)に
行こうという話になりました。
ポーカーは、ポーカーフェイスという
言葉があるように、
感情を悟られずに
「多様性」と「多面性」
こんにちは。
実家が全焼したサノです。
僕は今から10年以上前ですが、
ホストクラブで働いていました。
ホストクラブは、僕の人生の中で
最も多様な人たちが集まる場所でした。
僕の初めて出来たお客様はシンガポール人で、
お客様の中には官僚の方もいれば、
風俗嬢の方もいました。
バイセクシャル、同性愛者の方もいました。
同僚は僕のように親がいない人もいれば、
エリート家系で育った高学歴の学生もい
ネガティブの乗りこなし方
こんにちは。
実家が全焼したサノと申します。
先日、大阪経済大学で、
講演させていただく機会がありました。
「ネガティブの乗りこなし方」
というテーマでお話しました。
このテーマで話したいと思ったきっかけは、
ふとTwitterで「就活」と検索した時でした。
関連ワードの「死にたい」という言葉を見て、
胸がぎゅっとなったのです。
誰もが人生で苦しい瞬間があると思います。
そんな時に少しでも
弱者こそが強者の世界
先日、The Breakthrough Company GO
という広告会社の代表、
三浦さんとサウナに行きました。
写真は、令和版のトトロではなく、
サウナを楽しむ三浦さんです。
三浦さんと色々なお話をしましたが、
僕が特に印象に残ったのは、
「今の時代、強い人はSNSで応援されない」
と何気なく言った三浦さんの一言でした。
三浦さんと別れた後も、
なんとなくその一言が頭に残っていまし
小学校で貨幣制度が崩壊した話
こんにちは。
実家が全焼したサノと申します。
僕の通っていた小学校では、
毎年冬になるとマラソン大会がありました。
小学生の頃は足が速いとモテるので、
特に男子は一生懸命取り組んでいました。
しかし当然ながら競争なので、
走るのが得意な人もいれば、
不得意な人もいます。
同級生のぽっちゃり体型の
クボ君は、毎年ビリでした。
ビリだからと言って
差別されることはありませんが、
本人からする
好きな子の部屋で放尿した話
こんにちは。
実家が全焼したサノと申します。
大学生の頃、僕は幼馴染から
こんなことを相談されました。
「最近好きな子ができたんやけど、
その子の家に行くことになってん。
でも2人で遊ぶと緊張するから、
サノもついて来て欲しい。」
家に呼ばれるくらい好印象なら
よっぽど変なことをしない限り
2人で遊んでもうまくいくと思いましたが、
幼馴染はかなり奥手な性格なので、
僕は了承し、ついていくこと
ポケットからキュンした話
「ポケットからキュンです」
という歌が若者を中心に流行っています。
「キュン」とはトキメキをあらわす言葉です。
しかし、僕がその歌で思い出すのは、
亡くなった祖母のことです。
大学生の頃、僕は祖父母と
3人で暮らしていました。
特に不自由はありませんでしたが、
世代の違いなのか宗教上の違いなのか、
たまに祖母は僕から見て
おかしなことをしていました。
その1つに、
「ポケットに塩を入れてく
過激なエッチで身を滅ぼした話
こんにちは。
実家が全焼したサノと申します。
皆さんがエッチなことに
興味を持ったのはいつからでしょうか。
僕がエッチなことに興味を持ち、
エッチな動画を初めて見たのは
中学生の頃でした。
当時は携帯の通信費が
定額制でなかったため、
エッチな動画を見るのにも
細心の注意が必要でした。
つい動画を見すぎてしまい、
何十万円もの通信費を請求される
若者が後を絶ちませんでした。
だから当時
良い人だけどやらかす人の話
こんにちは。
実家が全焼したサノと申します。
僕は小学生のころ、
野球チームに所属していました。
チームメイトは僕含め
4人しかいなかったので、
僕は必死に6人の部員を集め、
チームはなんとか試合に
出場できることになりました。
しかし試合当日、僕は補欠を言い渡され、
それ以降もずっと補欠でした。
切ない野球部生活でしたが、
僕は楽しく過ごしていました。
部員がある程度増えて、
後輩もで