
普通話はつらいよ
「わたくし、生まれも育ちも中国上海、黄浦江で産湯を使い……」というのは半分ホントで、半分ウソです。すみません、フーテンな自己紹介から始まり。私、佐野聡と申します。1992年、上海で生まれ、5歳のとき日本に移り住みました。その約1年後、日本国籍に帰化。そして、それから30年足らずの時を経た今年2025年、念願叶って中国語検定1級に合格しました。牛にひかれて善光寺参りではないですが、こういう機会(註1)でないとなかなか自分の半生を振り返ることもないので、私と中国語とのこれまでについて、つれづれなるままに書きつくしてみようと思います。しばしお付き合いください。
と、カタカタ、そこはかとなくキーボードを叩いているうちから、辛口読者諸氏からの「お前はネイティブなんだから中国語検定1級に受かるのも朝飯前でしょ、フン!」というツッコミが私の脳内に鳴り響いております。ああ、私が中国語ネイティブだったら、人生どんなに楽だったことか!何を隠そう、私は中国語の共通語である普通話(北京語がベース)のネイティブではなく、悲しいかな、自分でも知らないうちに上海語ネイティブとしてすくすく育っていたのです。それは昔の中国のことです。私の祖母は普通話はおろか読み書きすらまともにできませんでした。祖母(外婆)は上海語しか喋れず、そんな祖母に5歳まで育てられた私は、当然のなりゆきとして「母語」いやもとい「祖母語」をすっかり自家薬籠中の物としていたのです。
「上海語といっても、所詮は方言なんだから、共通語と大して差なんてないんでしょ。どーせ、107歳まで生きた金さんと108歳まで生きた銀さんくらいの違いでしかないんでしょ」とお思いのそこのアナタ。不!断じて、不!そういうアナタにひとつ、私からお願いです。どうか一度、中国の広さに思いを馳せていただきたい。上海と北京がどれだけ離れているかご存知ですか?1300kmですよ!ChatGPT老師に聞いてみると、パリとローマの間でさえ1100kmしか離れていない、というのですから、上海語と北京語の差は、フランス語とイタリア語の差より大きいはずなのです。ノンホー(上海語)とニーハオ(普通話)、ボンジュール(フランス語)とボンジョルノ(イタリア語)。何で片方は方言の差で、もう一方は国語の差なのか、私には到底承服できません!(失礼、ついグチが……)ですが、ある程度中国(特に地方部)に滞在したことのある方でしたら、中国における方言差の甚だしさについて、きっとご共感いただけるはずです。
とはいえ、幼少のころ上海語という「祖母語」をインストールされて日本にやって来た私に、何か普通話を学習する上でアドバンテージがあったか、と問われれば、正直に白状しますが、ありました、ありましたとも(泣)。受験勉強に疲れ果て、大学ではラクしようと固く決意した私は、必修の第二外国語を選択する際、まるで坂道を転がり落ちる石のように、自由意志が入り込む余地など1ミリもなく、ボールペンを持つ手が勝“手”に中国語(ただし、大学で学ぶのはもちろん普通話)のところをチェックしていたのです。初回の中国語の授業の際、周りの生徒がb(無気音)とp(有気音)の違いやら声調といったものに首を傾げてポカンとしている中、私はというと、先生の言っていることがなんと、ポカリの浸透圧並みに頭に入ってくるではありませんか!しかし、ここで自分の名誉のために言わせてもらうと、当時大学一年生だった私は、天に誓って、普通話がチンプンカンプンでした。たしかに、ピンインの解説を聞いてすぐさま、私は先生の中国語の発音(シニフィアン)を頭の中で組み立てることができましたが、それでも、その意味(シニフィエ)まではまるで理解できていなかったのです。
その後、寅さんみたいにいろいろあって(お察しください)、新卒で入社した会社を一年あまりで辞めた私は、これまた懲りずに寅さんみたいにフラフラしていたところ、運よく日中友好協会と巡りあい、有難いことに中国留学のチャンスをいただきました。これが、私と中国語との再会です。このとき私は、もう一度本気で中国語を勉強しようと思い立ったのです。(ふう、なんとか孔子先生のいう而立に間に合いました)
そして、1年間の中国留学を経て、ついに中国語検定1級に合格できるレベルにまで到達したかと言えば、さにあらず。だから、普通話はつらいよ。もちろん、留学を通して私の中国語力はメキメキ向上しましたが、しかし、それ以上に思い知らされたのは、中国語という沼の底知れなさです。中国四千年の歴史、その中で育まれた成語をぎゅうぎゅうに詰め込んだ中国語とは、決して1年弱の留学でマスターできるような生半可な代物ではなかったのです。
私は、帰国してからも中国語の勉強をコツコツ続けました。この、コツコツ続ける、という作業は、ラーメン作りの際、8時間以上かけて鶏ガラからスープをとる作業や、♪あ~あ~あああああ~、としか歌っていない「北の国から〜遥かなる大地より〜」(さだまさし)の歌詞に匹敵するほどの単調さなので、詳しいことはここでは割愛させていただきます。ただ、拝啓、恵子ちゃん、それでも僕は中国語の勉強をコツコツ続けたわけで。
― そして、三度目の正直を華麗に通り過ぎて(註2)、四度目の挑戦でやっとのこと1級の合格証を手にしましたとさ。めでたし、めでたし。
ああ、もうすぐ紙幅が尽きようとしております。最後にひとつ前言を撤回させてください。さきほど第2段落のところで、上海語ネイティブとして育ったことを冗談めかして「悲しいかな」と表現しましたが、もちろん私にとって、上海語しか出来なかった祖母の下で育ったという経験は全然「悲しい」ことなんかではありません。むしろそれは、私個人にとって、何万粒ものダイヤモンドにも引けを取らない、大切な財産です。
さて、今回私が中国語検定1級の二次試験(口述試験)を受ける前日、その祖母(外婆)が上海にて安らかに息を引き取りました。享年93歳でした。きっと天国にいる祖母も、この度の合格をお祝いしてくれているとともに、もしかしたら、今や上海語より普通話の方が流暢になった生意気な孫のことを、心の片隅でちょっぴりさみしくも思っていたりするのかもしれません。
(了)
(註1)本文は、(公社)日本中国友好協会が発行する会報『日本と中国』の2025年3月号に掲載された寄稿の元となった文章です。
(註2)中国語で「通過」と言うと”試験に受かる”という意味ですが、ここではもちろん”落ちた”という意味ですよ。念のため。