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55才から8年で6回目の転居が、もうすぐはじまる。63才を越えても‟その時に住むべき場所に住む”ために引越しを繰り返す人生は、無謀過ぎますか?ね。「あしたの人生への先行投資」のつもり。
★ざっくり引越し年譜
(かな~~り長文になった。ぜんぜんざっくりでは、ない。)
引越し1回目:2013年5月55才。マイホーム一戸建て2階屋⇒賃貸一戸建て3階屋へ。
香川県高松市郊外の小さな山の斜面を切り拓いた住宅団地の一戸建てマイホームを売り払って、「スープの冷めない距離」でひとりでアパートで暮らしていた高齢の父と住むために引越し。83才の父・55才の私・30才の長男の男3人住まいを目指す。ついでにマイカーも売却。「ローンを払うために働く」という時間を無くすための『家計無借金経営』を実現させたいと、公共交通機関と徒歩と自転車で暮らせる場所を目指す。
・転居先物件探しの条件は「まちの飲み屋街に這ってでも行けるエリア・スーパーまで徒歩5分以内・まあまあ、まちなか」
・高松市の栗林公園徒歩3分、商店街徒歩5分のまちなかに3階建て賃貸一軒家確保。息子3階、私2階、父1階で暮らし始める。快適。
・それまで支払っていた住宅ローンの毎月の支払額より支出が約1万円ほど少なくなり、2階建てからまちなかの3階建てに住居はグレードアップ?(笑)した。メデタシ!
・転居後は、つまりは約45年振りの?父親との同居生活。私は尾道の小学校を卒業してすぐに広島市の中高一貫校の寮生活に入って、そのあと東京に出たままだったので、こんな風にがっつり父と共にするのは45年振りくらいになる。一緒に過ごす時間も、各段に増えた。「そうか、オヤジというのは、こういう人だったんだ」と再発見することも。
その年、2013年の9月。当時勤務していた障害者就労継続支援B型事業所に、3Dプリンタ導入し、リリース文をライティングして県政記者クラブに投げ込み。テレビ局4局、新聞社3社が「報道向け説明会」に集まってくれた(効果的なニュースリリース文づくりは、お任せください。笑)。
いつも撮影される側なので、この日は「SNSに乗せますが、顔出しNGの方居ますか?」と投げかけて、苦笑を得たとことでパチリ。記者やカメラマンを撮影してやった! が、下記FB投稿。
その間にも、日々の暮らしの中で、父の様子が少しずつおかしくなる。
同居を始めて一気に「痴呆症の片りん」が顕著になってきた引越しの半年後、その年の秋の未明。私が24時を過ぎてストリートから帰って来て、父がベッドで泡を吹いているのを発見。救急車を呼ぶ。怒涛のような流れの中で、すぐに気管切開・胃ろうという状態になり、意識が戻らないまま月日が流れる。私がストリートに出ていなければ・・・・・。
引越し2回目:2014年56才3月頃。賃貸一戸建て⇒3DKマンションへ。
年が明けて。男3人の3階建て一軒家の暮らしの継続が不安定、先が見えないと判断して、すぐに男2人住まいへの家賃を抑えるべく転居を決断。
物件探しの条件は、毎日の見舞いがあるので、職場と病院の中間地点であること。
結果、ゆめタウン高松徒歩10分以内、スーパーは、自転車で5分程度の賃貸マンション確保。
この年、冬から春、そして夏へと見舞いのペースが毎日から2,3日おき。それから週に1回くらいにと減っていく中で、「障害者×3Dプリンタ」活動は進展し、10月からクラウドファンディングにチャレンジ。12月14日までの期間としてスタートした。
そして、転居後半年で倒れて意識が戻らないまま1年弱。父、他界。
・父の他界の約49日後、2015年の1月に私の長女に初めてのこども誕生。
ワタクシ、「じぃじ」となる。stonesパーカーで包み込む初孫。
引越し3回目:2015年57才2月頃。3DKマンション⇒3LDKマンションへ。
父が他界し、一息ついて。
「病院と職場」の中間ということだけで探して入居したマンションから、心機一転。
同じ高松市内で、「スーパー5分以内」は変わらず。街へは自転車で10分と少し郊外に出たけど、「家賃は以前と同じで部屋が1つ増えて、駐車場付き」の物件を確保。結婚して婿殿の転勤で高知に住んでいる娘に長女が生まれたこともあり、高松に来た時に一家で泊まれるように、「空き部屋」をひとつ確保した。ここで、時折「孫守り」の1日を送るようになる。
〇2015年58才5月、思いもかけない辞令・法人の方針。
障害者就労継続支援B型事業所を運営する社会福祉法人が、3Dプリンタ事業を障害者の就労メニューとして提供することを継続しない、ということを突然決めて利用者騒然。身辺慌ただしくなる。10月に退職。障害者メンバーも事業所に残るひと移る人、利用を止めるひと、三々五々、離散となる・・。
〇2016年1月59才、転職。
地元のフリーペーパー発行&カルチャー教室運営メディア企業に転職。仕事の傍ら、「障害者×3Dプリンタ」活動継続を模索。
〇2017年59才1月、上記を退職。
フリーランスとして個人事業主「三野晃一演出事務所」開業。
「障害者×3Dプリンタ」活動だけで食べて行けるようにすべく「事業化」へのチャレンジにより多くの時間を使いたいと考えて、この形態を取る。
〇2017年59才3月、シリコンバレーへ行ってみた。
「大阪市アントレプレナーネットワーキング・シリコンバレーツアー」に応募しOKが出たので約1週間のツアーに自腹で同行。英語でのピッチにチャレンジ。現地の数人の投資家や「日本人向けシリコンバレーツアー企画者の周囲にうごめく現地の人々」の話を聞く。資金獲得・投資家との明確な繋がりは確保できず帰国。
〇2017年10月60才、3Dプリンタ活動、法人化へ。
それまで任意団体「カガワ3Dプリンタfunコミュニティ」としてボランティア活動を行って来たが、当初メンバーから「ここまで進んだこの活動がなくなるのはもったいない。継続させるために法人格を取ってはどうか」という強い推しがあり、事業化を目指して一般社団法人 障害者・高齢者3Dプリンタファクトリーを設立。代表理事に。
〇ファクトリーのWebサイトをつくり、公開
発足の経緯や目的、ビジョンなど、全ページ、私がコピーライティング。
トップページでは、「本事業モデルを共に推進・協働する企業・研究機関・団体・事業所・施設を探しています。」と呼び掛けた。
【事業モデルを実現させるために必要なこと】
◆ファクトリーは資金、人的資源共に不足しています。メンバーは他に職業を持ち、人件費「0」での活動となっています。
◆本事業モデルを推進する専従人員が1,2人居るだけで、このプロジェクトは強力に育つと推察しています。
◆そこで、本事業モデルを共に推進・協働する企業・研究機関・団体・事業所・施設を探しています。
◆ファクトリーを「支援する」のではなく、「自らの事業としたい」と思っていただけるパートナーを求めています。
◆この事業モデルがさらに深化・進化し、ファクトリーの地元の香川以外の、世界中のどこの地域でもこのモデルが根付くなら、香川のファクトリーが中心である必要はないとも考えています。
◆この試みを、実現させ、ニッチで一般企業が手を永遠に出すことのない産業分野が静かに生まれることを夢見ています。
次の引越し端緒:2018年60才4月、FBイベント「3DPファクトリー東京ツアー」公開。面談希望者を募る:無謀にもほどがある。
いやいや、FBイベントで「東京行きます。気になったら声掛けてください。お会いしませんか?」というツアー。それで、「会いたいです」なんてひと、いますか??居ないよな。とは思いつつ。ちょうど4月上旬に大学のプチ同窓会をやると連絡があったので、どうせ行くなら1週間ほど滞在して、会いたい人、団体に会いに行こう!と思ってスケジュールを組んで、空いている日程を公開した。
いやいや、居ないでしょう・・
え!?居た。
旧知の方、こちらが行きたいとアポを入れた大学関係、団体関係者以外の「初めてのひと」が「参加」ボタンを!えええ。
これ以外に、医療法人グループで障害者就労継続支援A型事業所を共同運営している理事長からもメールをいただき。
こんなツアーになった。
引越し4回目:2018年60才5月。高松3LDK⇒東京中央区水天宮界隈の1Kウィークリーマンションへ。
その無謀なツアー告知・会いたい人募集に名乗りを挙げてくださった方、団体2組と,4月に東京でお会いして諸々お話をして。短い期間で3回会って話を詰めたり。
一気に「その事業モデル、うちで一緒にやりましょう」となって、「東京へ移住」という選択肢が人生に現れる。
で、5月26日頃移り住み、6月1日から東京での暮らしと仕事が始まる。
転居の前には、高松市内各所で繰り広げられる音楽フェスへの参加とか。2018年のFesのテーマが「自由を歌おう」だった。賛意。
Fes参加後、高松から東京に送った荷物は、まずは、これだけだったり。
東京に行く数日前に当日告知した「rookie、少ししばらく高松を離れますライブパーティ@ペペルテ酒場」なるイベントをやったりして。
そして。東京・中央区箱崎のウィークリーマンションへ。
最寄り駅は、水天宮前駅。いいまち。
東京での「障害者×3Dプリンタ」活動が南青山の障害者就労継続支援A型事業所と、Fab Lab Shinagawaではじまる。10年くらい前から東京出張の旅に行っていた新橋の「ライブ居酒屋さんろす」マスターに移住のご報告や。新たなオープンマイクのお店にひとりで突撃したりの、東京ひとり暮らし。
当然ながら?山あり谷ありな東京の日々。この年の誕生日のFB投稿は、「あしたはどっちだ?」南青山の事業所の最寄り駅が表参道だったので、❝表参道クロスロード❞の絵。
〇2018年12月、障害者就労継続支援A型事業所、廃業・・・。
なんともはや。なんというか。二つの法人の共同運営で開業し運営を2年ほど経過で、相容れない事業方針が露見し廃業。弁護士を入れての廃業処理の対応担当や東京都への新規事業所指定申請のための膨大な書類づくり担当になり、「障害者×3Dプリンタ活動」に割ける時間が激減。
うーん。
引越し5回目:2019年2月61才。高松からの相方の東京移住を祈るように待つために、1Kから1LDKの賃貸マンションへ。
水天宮からの物件探しの条件は、「大規模じゃないマンション・鉄筋・水害リスクの少ないエリア・渋谷から20分以内・駅から7分以内・バストイレ別・室内洗濯機置き場・キッチンきれい・2階以上・角部屋・相方と喧嘩しても別々の部屋で寝れる間取り」。
やまほど検索で候補をノミネートして、数カ所、自分で最寄り駅に行って街並みを見たり、不動産屋と物件を見たりした。これは、最初の引っ越しから同じ。数年の間、いつも物件検索をやり続けていたことになる。
で、巡り合ったのが桜新町。
まったく知らない町で、サザエさんと水前寺清子のまちということも、物件を決めたあとに知るくらい。駅から徒歩4分で「サザエさん通りのすぐ裏」というロケーションも、ほんとにたまたま。ラッキーカムカム。
2019年62才10月、人生の相方、高松から桜新町に移住して来てくれて。ふたり住まい、はじまる。
そのお知らせのFB投稿は、私のFBアカウント開設以来最多となる「355いいね」と「125コメント」をいただく。これは、もちろん、相方のお人柄と人気の所以(相方のアカウントでの報告投稿では、440いいねと244コメント)。感謝。
そして2020年、マスクの時代に、世界が一変。
テクノロジーが発達しまくっている現代においても「よくわからない新型ウィルス」ひとつで、こんなにも世の中が混乱するのだと。日本国内だけでなく、世界のバラバラな反応・施策・論調に驚きはじめる。
キャリアコンサルタントである相方は、10月の東京移住から暮らしにも慣れて、さあ、講座企画や募集などやりはじめようか!というときにコロナ禍。4月に決まっていた高松での社員研修や講座の仕事は中止になったり、東京⇒高松への移動を断念して代役を立てたり。私は3月中旬から99%在宅テレワークになった。
暮らしが、変わった。
で。新型コロナ禍の混迷が続く2020年7月頃から、「渋谷から20分以内」である必要がほぼなくなると感じて、またまた、また、物件検索を始める。
<検索絞り込み条件>
・水害と地震リスク最小限エリア
・渋谷から60分以内
・今の家賃より3万円以上安くなる
・駅5分以内
・坂、なし
・専有面積45㎡以上
・バストイレ別
・室内洗濯機置き場(ドア付き)
・独立洗面台
・2階以上
・スーパー徒歩10分以内
7,8種類の賃貸探しアプリを二人でダウンロードして検索しまくって。7月末頃から、自分たちで気に入った物件の最寄駅から物件まで歩いてみる。物件の中身より、シニアな私たちが住みたいと思うか。それがまず大切、という観点からまちを歩いた。「Stayhome中の、人生に必要な所要での散歩」として電車を乗り継いで、まちを体感してみる、を敢行。
西所沢、新所沢、武蔵浦和、中央林間、南町田グランベリーパーク、成瀬、町田、長津田、青葉台、藤が丘、中山、相模原・・・
※「星空を見上げる3Dプランタ家族」と本文は、関係ありません。
と、いうことで。この続きは、次のnoteで!
・・・最後まで読んでいただき、ありがとうございました。(というか、この末尾までたどり着いた方、いらっしゃいますか??