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「短編小説」〜ムーンリバー&手のひらの恋〜NNさん企画#青ブラ文学部


海に浮かぶ月光を「ムーンリバー」と呼ぶと覚えたのは、幾つの歳だっただろう。

母方の祖父の別荘に私が初めて招かれたのは6歳の時だった。祖父は初めて生まれた女の孫の私を大層可愛がってくれていた。あくどい事をして一代で財を成したと言われているが、私は私を膝の上に乗せて微笑んでいる好々爺の姿の祖父しか覚えていない。

あの日は何かのお祝い事だった。
母は私にこの日の為に選んだ白いワンピースを着せていた。
次々に運ばれる料理と開けられるシャンパンやワインボトルがのったテーブルの間を泳ぐように私ははしゃいで走り回っていた。
「沙耶ちゃん、沙耶!お行儀よくなさい」
母はいつもより濃い化粧が塗られた眉間に二本のシワを浮かべて私を叱ったが、その目に怒りは宿っていなかった。
「まぁまぁ、活発な可愛いお嬢ちゃんでお幸せね~、佐知子さんは」
親戚の人達のお世辞に目を細めて
「お転婆で困っていますの」
母のプライドがくすぐられていたからだ。
デザートのケーキが配られると私は、その生クリームに指を突っ込んでぺろりと舐めた。家で食べるショートケーキよりも上等な味がした。
あ〜、思い出した。
あの日は、母の一番下の妹の美也子叔母さんの婚約パーティーだったんだっけ。そう言えば、母はこの日の為にと言って祖父に新しい着物をねだって買ってもらったと言っていた。桜色のその着物は子供心にも華やかな顔立ちの母によく似合った。
美也子叔母さんは、姉妹なのに母よりもずっと地味な顔をしている。重い瞼の下の眠いような瞳に低い鼻梁、唇だけはいつも忙しなく動いていて、何かを喋っているか、何かを口に運んでいるような人だった。でも私は、いつも美味しいお菓子をくれる美也子叔母さんが好きだった。

「ねぇ、ママ〜、ママがそんなにお洒落をしたら、美也子おばちゃんが、かすんじゃうよ」
私はそっと母に耳打ちをした。
「まぁ、沙耶ったら、そんなこと言ったら美也子に悪いでしょ」
口ではそう言いながら、母は嬉しそうに微笑んだ。それで母が上機嫌になる事くらい6歳の私にも分かった。だから今夜は少しくらいお行儀が悪くても叱りつけられたりはしないだろう。それに、なんと言っても「お祝いの席」なんだから。
大きく開け放たれた窓の外に仄白い満月が海を照らしていた。
父は母が選んだ黒地にストライプのスーツを着て、居心地が悪そうに壁に寄りかかり、ウィスキーのロックを飲んでいた。
従兄弟達は皆、男で子どもっぽくてつまらない。

両親の目を盗んで、私は月に誘われるように外階段を下っていた。祖父の別荘の庭からは、そのまま海岸まで出られる。覆い茂る南国の樹木の葉をくぐって白い砂浜に出ると目の前に海を照らす月の灯りが川のように伸びていた。

「きれい!!」

仄白い灯りに誘われるように私は海へ海へと駆け出していた。買ってもらったばかりの赤いエナメルの靴に砂が入って気持ちが悪かったが、それよりも月の灯りの誘惑が私を海へと走らせた。
海水が足元をピシャピシャ濡らすところまでたどり着くと今度は、白い川の中に紫や緑色に煌めくクラゲが泳いでいる姿が見えた。

月のしずくを両手でそーっとすくってみた。
手のひらの上に乗せるとあんなに輝いていたはずのしずくが、ただの闇に変わってしまった。
闇は私の指の隙間からさらさらと溢れ落ちていく。
ざぁーざぁーと響き渡る海の息吹の中を私は奥へ奥へと進んでいた。
どうしても、月のしずくを自分のポケットに入れて持ち帰りたかった。すくってもすくっても、月の灯りのしずくは私の手のひらの上で闇に変わってしまう。

「あっ!」

気付いた時には海の深みに首まですっぽりとはまっていた。白いワンピースは、ぐっしょりと濡れて重くて動けない。目の前をさっきのクラゲ達が私を嘲笑うかのように優雅に夜光を続けていた。

「どうしよう、どうしよう…」
泣き出していた。

「こっちへ来て」
その時、白い手が何処からともなく伸びて私の手を掴むとぐいぐいと岸へと引っ張った。

「ハナガサクラゲはきれいだけど、猛毒なんだよ」 私と同じ歳くらいの白く輝く男の子が言った。アップアップと溺れそうになっていた私はクラゲの名前どころではなかったが。
「ありがとう、助けてくれて」
砂浜に戻ると頭を下げた。
「海は怖いから気をつけてね。僕が困るから…」
「あ、待って!お礼をしなきゃ、ねぇ~ケーキを食べて行って…」
月の灯りに照らされて仄白く輝いたその子は、引き止める私の言葉には答えずに闇の中に消えて行った。

びしょ濡れのまま、とぼとぼと別荘へ帰った私を母は叱る代わりに泣きながら思いきり抱き締めた。
「沙耶、沙耶、探したのよ〜、沙耶〜、良かった、無事で良かった〜」
母の桜色の着物は泥だらけに染まった。

あれから何度も祖父の別荘へ行ったけど、あの白い男の子に二度と出逢う事はなかった。あれは満月が私に見せた幻だったのだろうか。

祖父母もとうに亡くなり、今日私達は、この別荘を引き払うために清掃の手伝いに来ていた。
久しぶりの満月の夜にムーンリバーを見せようと6歳になった息子の手を引いて海辺へ出た。あの日のようにクラゲが夜の海を漂っている。

「綺麗でしょう?夏輝」
「でもママ、ハナガサクラゲはきれいだけど、猛毒なんだよ」
「えっ?」
「それに、海は怖いから気をつけてね」
月の灯りに照らされた息子は仄白く輝いていた。私は夏輝の手をぐゅっと握り締めると
「さぁ、お手伝いをしてくれたお礼にケーキを切りましょう」
別荘へ向かって歩き出した。











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