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紙切れ一枚#秋ピリカグランプリ2024


磨りガラスの向こうから柔らかな陽射しが差し込んでいた。チラチラとその陽射しが揺れて私達の離婚届の上に影を落とす。銀杏並木の葉のざわめきが悪戯しているせいだろう。
学生時代から通っている古い喫茶店の大きなボックス席に座った誠司の指が小刻みに震えて見えた。ペン先の向きを確認するかのように使い慣れたはずの万年筆を何度も持ちかえている。
ふと思った。

ーーどうして、こんなに綺麗な緑色なのかしら?婚姻届は赤茶色の枠だったのに。

十三年前、あの時の私達は、今のように面と向かって座るのじゃなくて、この席で肩が触れ合うほど密着して隣同士に座っていた。緊張した私達は幾度も記入を間違えて、3枚目にやっと書き上がった時に、見つめ合って笑い転げたんだったわ。

誠司の指が止まって
「何丁目何番地だっけ?俺達の家?」
私に聞いた。
「三丁目六番地よ」

ーーそんな事も知らないの?あぁ、それよりも、必要最低限の事しか口にしなくなったのは、いつからだったかしら?ううん、違う。私は、この人のこんな寡黙なところが好きだったのよ。

半年間の別居生活の末にお互いが出した結論が離婚という形だった。あんなに好きだった誠司が、私の中で、いつの日か色褪せて見えるようになっていた。
誠司の頬骨が少し尖って、頬に影を落としている。
「ちゃんと食べてるの?痩せたんじゃない?」
「うん…少しだけ」
ワイシャツの襟元が黄ばんで、爪が伸びていた。
「ねぇ、お洗濯はちゃんとしてる?爪もこまめに切らなくちゃ」
「うん、一週間に一度」
「それじゃ、汚れが落ちなくなっちゃうでしょ?」
「これからは気をつけるよ」

口うるさく言っても、煙たがらないのは昔からだ。一通り書き終えると誠司が私の目を見て言った。
「少しは幸せだった?」
「まぁね」
「それなら良かった」
口では良かったと言いながら、浮かべた微笑みは寂し気だった。
「じゃあ、僕はこれで…」
誠司はそう言うと左手のくすり指から、緩くなったリングを外して、緑の枠の紙に乗せた。
ーーあぁ、この指が私は好きだった。

「元気でね」
「貴方も…」

たった一枚の紙切れが私達のこれからの人生を変えてしまう。
冷めた珈琲には手を付けずに、誠司は立ち上がると二人分の勘定を済ませて、喫茶店から出て行った。私も立ち上がって店を後にした。
銀杏並木の下を遠ざかっていく誠司の後ろ姿が見えた。
ーー止めよう。
私は走り出していた。クシャクシャに丸めた紙切れを一枚握り締めて。
「誠司〜〜」
しがみついた背中が暖かかった。
ときめきも情熱も要らない。この晩秋の銀杏のように色褪せてしまっていても、私はやっぱりこの人が好きだ。誠司の目の前で粉々に破り捨てた紙吹雪は鮮やかな緑色だった。

(1099字)




ピリカ様、スタッフの皆様、企画に参加させてください。稚作ですが、よろしくお願いします。

秋ですね。
平凡な人生が一番幸せなのかもしれない。


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