「短編小説」『追憶の残り火』#虎吉の交流部屋プチ企画
一枚の絵を庭の落葉を燃やしている焚火の上に乗せた。油絵の具が手伝ったのか、炎はメラメラと音を立てて少女の笑顔を崩れさせ苦悩の表情に変えていった。
その火の中へ一通の手紙も投げ入れた。
私の思い出は跡形もなく灰になっていった。
渋谷 美希は高校2年の初秋、美術部の一年先輩の杉浦 和也に声を掛けられた。
「美希ちゃん、僕の卒業制作のモデルになってくれないかな」
和也は美希がこの高校に入学して直ぐに密かに想いを寄せた人だった。
当時、彼は野球部の補欠だった。美希は三階の美術室から練習する彼をラフで描き続けていた。高校球児なら誰でも憧れる甲子園に向けてレギュラーの座を掴むために和也は暗くなるまで一人残って練習をしていた。初めてその真剣な和也の姿を見た時、美希は胸がキュンと鳴った。
それからずっと誰にも言わずに野球部の補欠の先輩を眼で追い続けた。
ところが美希が一年生の秋、和也はグラウンドに姿を見せなくなってしまった。
「風邪でも引いたのかな~?」
一週間経っても二週間経っても、彼はグラウンドに現れなかつた。美希は心配になって、二年生の美術部の相原 結子先輩に勇気を出して聞いてみた。
「野球部の杉浦先輩、お休みみたいですね。どうかしたんですか?」
「あ、学年が違うから知らなかった?杉浦君、交通事故にあってね、入院してるの。ちょっとかかるみたい……」
結子先輩は眉間にシワを寄せた。
「えっ?そうなんですか……」
「ひょっとして渋谷ちゃん、杉浦の事が好きなの?」
「いえ、そ、そんな〜、ただちょっと」
「ふーん」
先輩はポニーテールの髪を揺らして
「そうだよね~、あいつ目立たないし、それに補欠くんだもんね」
笑った。
「あ、ごめん、ごめん。怪我して入院してる人のこと笑っちゃって。早く良くなるといいね、渋谷ちゃん」
謝りながら、まだ意味ありげに笑っていた。
セーラー服の襟元が寒く感じられ始めた頃、美術室へ相原 結子は杉浦 和也を伴って現れた。
「え〜、今日から美術部に入る事になった杉浦くんでーす」
和也は両脇の松葉杖を上手に使って結子の一歩前へ出て、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「此処、使いなよ」
結子は美希の隣に空いていたキャンバスの席を使うように和也に言った。
「ねっ、渋谷ちゃん、いいわよね!?」
ウィンクまでしている。美希は頬から両耳まで熱くなっている自分を感じていた。
「隣を使わせて下さい」
和也は松葉杖を椅子の背にもたせ掛けると片足でぴょんぴょんと器用に美希の隣に座った。
「あ、はい」
「二年の杉浦 和也です。これからよろしくね」
「わ、私、一年の渋谷 美希と言います。こちらこそ、よろしくお願いします!」
明らかに声がうわずっている。
その様子を見た結子がクスッと笑っていた。
最初の頃こそ緊張して何も話せなかった美希だったが、数ヶ月も経つと和也の気さくな性格を知って、だんだんと打ち解けていった。
「あの……怪我、大変だったんですね」
「あ、これ。やっぱり気になるだろ」
和也は右足をポンと叩くと
「複雑骨折の上に神経ヤラレちゃって、もう普通に歩けないんだ」
他人事のように笑った。
「好きな野球は諦めたけどさ、こいつが俺の生命、救ってくれたから」
不自由になった右足を今度は愛おしそうに撫でた。
でも笑顔の最後は何処か寂しげだった。高校生でいきなり背負わされたハンデは気さくで明るい彼にも相当な出来事だったに違いなかった。それでも笑う和也を美希は益々『この人、好きだな』と感じていた。
「でも、どうして美術部に?」
「もともと、絵…漫画なんだけどさ、漫画が好きでノートにイタズラ書きしてたのを相原に見つけられちゃって」
和也の視線の先には他の部員とお喋りしている結子が居た。
「杉浦!野球がダメになったなら、こっちの才能活かしなよ!って(笑)」
「結子先輩なら言いそうですね」
「だろ?」
それから二人はずっと隣同士に座って絵を描いた。
一年の歳月は、あっと言う間に流れていった。和也の松葉杖は一本になり歩行も事故当初よりも自然に見られるところまで回復していた。
美希達の学校の文化祭は秋に行われる。それが三年生の最後の卒業作品の発表の場でもあった。
隣に座っていた和也が美希を見つめて、その作品のモデルになって欲しいと言う。
「私でいいんですか?」
「うん、美希ちゃんにお願いしたいんだ」
美希は放課後、毎日和也の前に座った。
彼の視線が真っ直ぐに美希を見つめる。恥ずかしいような嬉しいようなくすぐったくて甘酸っぱい感覚に美希は満たされていった。
文化祭の二日前
「出来た!」
和也がキャンバスから眼をあげた。
「先輩、見せて見せて!」
小躍りして和也に走り寄った美希に和也がキャンバスを裏返した。
「ダメ(笑)本番の文化祭で一緒に見よう!」
美希は幸せを感じていた。
一年生から想いを寄せてきた人の絵のモデルになって、一緒に文化祭を歩ける。
文化祭まで、後二日……
文化祭の当日、校庭のイチョウ並木の下を沢山の学生達が楽しそうに歩いていた。美希は美術室で展示された自分の油絵の前に一人で立っていた。
いくら待っても和也は現れなかった。
キャンバスの中の自分は嬉しそうに微笑んでいるのに美希は一人ぼっちだった。
そして、その日から三年生は美術室に来なくなった。
「結子〜、片付けが一段落したらお茶にしよう」
右足を軽く引きずって夫が縁側から声を掛けた。
「はーい」
結子の前で美希の笑顔と和也の手紙は灰になった。
文化祭のあの日、虫垂炎で緊急入院した和也のお見舞いに結子は行った。その時、美希に渡して欲しいと結子は彼から一通の手紙を預かった。
「渋谷ちゃん、絵の前に居なかったわよ」
その手紙を結子は美希に渡さなかった。
「杉浦、フラれちゃったんじゃない?他の男子と楽しそうに歩いてたから渡しそびれちゃった。ごめんね、杉浦」
あれから和也は持ち前の努力を重ねて漫画家として世に出る事が出来た。足のハンデキャップがあっても通じる世界で彼は成功を納めた。
連載が決まって、この鎌倉の古い家を引き払い都心のマンションへ引っ越しをする事になったので要らない物を二人で処分していた。
妻の結子はイチョウの樹の下で夫が要らなくなった物を燃やした。数十年前の若かった自分の思い出と共に灰にした。
「ごめんね」
呟きながら薄い笑みを浮かべ、プスプスとくすぶっている燃えかすにバケツの水を掛けた。鎮火を見届けてから結子は夫の元へ駆け寄り
「和也、お茶入れるね〜」
今度は優しい笑みを浮かべた。
了