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「ショート」雪化粧の富士2#シロクマ文芸部


雪化粧の富士山を眺めるのは、後どのくらいだろう?
僕は男湯の壁一面に描かれた親父自慢の富士山を見上げていた。

我が家の稼業は祖父の代から続く「銭湯」だ。
小さな頃から、ずっとこの「雪化粧の富士山」を眺めて育ってきた。
小さな頃は、まだお客が少ない夕方に
「早く入っちまえよ」
親父が一番風呂に僕を入れてくれた。

「ちっちぇえ、おちんちんだな~」
近所のおじさん達が僕をからかいながら、シャンプーハットの上からゴシゴシ髪の毛を洗ってくれたり「いいか、坊主、足の指の股まで洗わねぇと足が臭くて女にモテないからな」
って身体の洗い方まで指導してくれた。
あの頃は良かったな、まだ銭湯に集まる近所の人達が沢山居て。
家に風呂があっても仕事が早く終わる職人さんや風呂無しアパートに住む苦学生さん、一番風呂に入りたい元気なご隠居さん達の男湯はたまり場だった。
風呂からあがるとおふくろにナイショで、おじさん達の真似して牛乳を飲んだ。もちろん、片手を腰にきちんとあててゴクゴクって一気飲みだ。ちっちゃいおちんちんをプラプラさせてね。
もっと小さな頃は、おふくろと女湯に入っていたらしいが、残念なことに僕の記憶にはない。

家のお湯加減はボイラーマンで店主の親父の腕にかかっていた。親父の腕は一流だったと僕は思う。いつ入っても、湯気が立ち込める浴槽の中で皆が幸せそうにうっとりとお湯を楽しんでいた。
そんな親父がボイラー室で倒れているのが発見されたのは先月の事だった。
ちっとも丁度いい湯加減にならないのに業を煮やして文句を言いに行ったのは、今では隠居の身となった元大工の源さんだった。番台に座っていたおふくろに
「こんな湯は、かっちゃんの湯じゃねぇ!」
と啖呵を切ったそうだ。
「おかしいね~、ちょっと見て来るわ」
おふくろが慌てて番台から飛び降りて、ボイラー室へ行くと其処に親父が倒れていた。元大工の源さんのおかげで一命は取り留めたが、脳梗塞で親父は半身不随の身体になった。
タバコも酒もやらなかったのに8月のボイラー室は、よほど暑かったのだろう。親父は愚痴一つこぼすような人じゃなかったから、血圧が急激に上がっても我慢していたんだな。

あの日、病室でおふくろにしか聞きとれない言葉で親父が何かを耳打ちした。サラリーマンをしていた僕に向かっておふくろが代わりに言った。
「お父さん、あんたに遺す物が何もないから、あの銭湯を自由にしていいって…」
親父とおふくろの目が寂しそうに光ったが
「うん…分かった」
一人っ子の僕は、そう答えるしかなかった。

そして今、僕は「雪化粧の富士」にさよならを告げている。
此処を取り壊して、親父とおふくろが住める小さなバリアフリーの家を建てよう。
思い出がいっぱい詰まった銭湯だけど、両親の今後の為なら仕方ない。
さよなら、自慢の雪化粧の富士…

流すつもりのない涙が両の目から溢れ出してきた。
おじいちゃん、ごめんなさい。僕の代で潰すことになっちゃって。
僕は親父の病院へ行く為に銭湯の玄関に鍵を掛けて振り返った。

『雪の湯、やめないで!』

其処には、元大工の源さんを筆頭に近所の人達がプラカードを持って立っていた。

「ごめんなさい、無理なんです。僕一人の力では無理…」

一人の紳士が分厚いバインターを持って、僕の前に立った。
「私は学生時代にご両親に大変お世話になりました。」
会釈とともに『〇〇銀行 支店長 〇〇〇〇』と書かれた名刺が差し出された。
それから口調が急にざっくばらんになった。

「坊主、大きくなったな~、ちんぽこも少しは大きくなったか?覚えてるか?」
(ちんぽこは余計だろ)
「あっ」
「裸の付き合いをした仲じゃないか、相談に来てくれれば良かったのに」
男は笑って「雪の湯再生計画書」と書かれたバインダー一式を僕に手渡した。
「ご両親は貯金もないけど借金もない。まだまだ立て直せる」
腰に手を当てて一緒に牛乳を飲んだ苦学生のお兄ちゃんだった。
「でも今時、もう銭湯なんて」
僕は『雪の湯』と書かれた薄くなった看板を見つめた。
「そりゃ、僕だって親父が愛したこの銭湯を残したいですよ。でも…」
微かに見え始めた灯台の光が、また遠ざかっていくような感覚だった。源さん達もシーンと静まりかえってしまった。
銀行からお金を借りられても返せなければ、銭湯も住む場所さえ失くなってしまう。年老いた両親を路頭に迷わすわけにはいかない。


その時、源さんの背後から
「ブームを巻き起こせばいいんじゃないかな」
ヒゲ面の見た事もない男が、ボソッと言った。
誰だろう?
「僕は最近通い出した者だけど…お父さんが沸かすお湯は本当に気持ち良かった。この銭湯を潰してしまうのは惜しい」
「じゃあ、僕にどうしろって言うんです?」
「その再生計画書にサウナの併設を提言したのは僕です」
「サウナ?」
「そう!サウナ!銭湯の割合を小規模にしてサウナを造ってくれれば」
「今時、サウナですか?それで僕たち家族が助かるんですか?」
良心的に提案してくれている人に僕はつい声を荒げてしまった。
「すぐには無理ですが私が必ずサウナブームを作り出します。信じてください」



あれから十年の歳月が経った。親父はリハビリの甲斐があって杖をつけば歩けるまでに回復した。おふくろはまだ番台に座って町の人達との世間話を楽しんでいる。
あの時、
「俺が最後の腕を奮って最高なサウナを仕上げてやるよ。格安でな」
そう言ってくれた源さんは昨年老衰で旅立ったが、最後まで家に通っていた。

僕はサラリーマンを辞めてこの銭湯を継いでいる。ようやく親父からお湯の加減を任されるようになった。
あの日、救ってくれた町の人達には感謝の気持ちでいっぱいだ。
でも、どうしてあの場にあの人が居てくれたんだろう。「サ道」の作者タナカカツキさんのおかげで、僕達の自慢の「雪化粧の富士山」は今日も脱衣所の壁から町の人達を見守っている。

「パパ〜、出たよ~」
4代目の息子が風呂からあがったようだ。ちっちゃいおちんちんをプラプラさせて、ボイラー室へ走って来るだろう。幼い頃に見た親父の背中のように僕も息子に堂々と働く男の背中を見せてやれているだろうか。






※フィクションです。

こちらの企画に参加させて頂きました。
よろしくお願いします。

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