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算命学余話 #R110 「禄の愛、印の愛」/バックナンバー

 昭和の時代の東京五輪は、スポーツの季節として相応しい10月に開催されました。スポーツの秋という表現は日本独特のものだそうで、海外では必ずしも秋がスポーツに適した季節だとは見なしていません。また十月十日が体育の日として祝日になったのは、東京五輪からだそうです。運動会という学校行事も、外国にはないことがしばしばです。
 では令和の時代の東京五輪は、どうして夏真っ盛りの8月に行われるのでしょうか。出場選手は勿論、観客だって場合によっては命懸けになるほどの猛烈な暑さなのに。答えはカネです。判りやすいところでは、8月は長期休暇の取れる国々が多いため、彼らの海外旅行の行き先に五輪が見られる日本を選んでもらって、経済効果を上げようという目論見。でもこれはそれほど大きな利益にはならない。もっとあるのは競技の中継放送とそれに伴う広告費。この辺りで莫大な利権が動くので、少しでも多くの利益を上げるべく、都合のいい真夏に競技日程を組んだというわけです。まあ私はこうした利権の話には疎いので、興味のある方はご自分で調べて憤って下さい。

 どうしてこんな話を算命学余話の前座に持ってきたかというと、我々一般人は、スポーツといえばルールに則って行われる公平な身体競争として爽やかなものを連想するし、そうしたプレーをアスリートに期待しています。海外ではチェスもスポーツの一種として考えられていますし、昨今ではEスポーツも流行っておりますが、これらが五輪種目にならないのは、五輪がもともと古代ギリシャの行事で、原始的な肉体鍛錬とその成果を競うという思想が根底にあるからです。尤も、古代ギリシャの五輪も回を重ねるごとに利権が膨れ上がり、五輪に出場する選手は純粋なスポーツ目的ではなく、ここで有名になって近い将来選挙に出馬するためだったと研究者は語っています。あまりに現代人と同じ感覚なので、人類の進歩のなさに呆れます。
 話を元に戻すと、現代のスポーツなり娯楽なりファッションなりは、そこから生じる副次的で莫大な経済効果に着目した商人連が、これを最大限に拡大させて儲けるために、スポーツや娯楽やファッションの当事者自身の好みや期待を無視して、経済効果の高い方向へ、金儲けに都合のいい方向へ、彼らの好みや期待を誘導・宣伝しているということです。

 これは何も新しい説ではありません。かくいう私ももう何年も前に読んだ記事から引用しています。私は流行のファッションに興味がなく、飽きの来ないデザインで質の良いものを長く着る方向で衣類を選んでいますが、そういう人間から見れば、毎年流行が著しく変わるファッションには違和感を覚えるし、何よりも、雑誌や広告で宣伝される文句に全然共感もしなければ、毎年変わるファッションが素敵だと思ったことも一度もない。いやそれどころか、「ダサいな、こんなのが今年は流行りなの?」「一年後には古くなっている流行に何か価値があるのかしら?」と思うことの方が多いくらいです。
 つまり「この秋はコレ」という宣伝の根拠が全然見えない。全然いいと思わないから納得いかない。だから買わないし耳も傾けない。しかしなぜ自分はそうなのかといえば、自分がおかしいのではなく、天邪鬼なのでもなく、単に自分を含む消費者が本当に欲しい物・似合う物などそっちのけで、売り手の儲け第一に捻出された誘導ファッションだったからなのです。

 いつ頃からそうなったのかは興味のある方に調べて頂くとして、これはファッションに限らず、食べ物や家電、映画やアニメ、ゲームといった、元手は大したことないのに一度流行ると元手の何十倍もの利益を生むタイプの商品によくある事例です。
 昔はこういう商品はある日何の前触れもなく突然ヒットし、その生産が需要に追いつかなくなって、せっかくの儲けを取りこぼすという事態がしばしば起こっていました。これに目を付けた商人連が、儲けを取りこぼさずに済むよう、予め商品を用意しておいて、流行そのものを計画的に作り上げ、万策整えた上でコンテンツを世に出すという風に順番を変えた。その結果、消費者が本当に求めているわけではないコンテンツが世に出回って(まあ多少市場調査はしているでしょうが)、「これが今売れてます」という宣伝文句に否応なく消費者が従うという、順番の狂った消費活動が常態化したというわけでした。

 私のように、自分の欲しい物が明確に判っていて、それ以外の物は欲しくない人間は、こういう誘導には乗らずに済みます。乗ってしまうのは、自分の好みや欲しい物が判っていない、つまり自分についてよく考えたことのない人なのです。自分に何が似合うのか、何を見ている時が楽しいのか、自分で自分が判っていない。そういうボンヤリした人を、商人連はネギカモにしているのです。そしてスポーツや五輪もそうなってしまった、だから8月という劣悪な季節に開催されることに誰も文句を言わないのです。
 アスリートたちこそもっと文句を言うべきでは? ベストの環境で最高のパフォーマンスをしたいだろうに。そう思いますよね。でもだめなんです。なぜならスポーツ選手に向いてる人というのは大体車騎星・牽牛星が機能しているため、自己犠牲とか献身とか身を削る行為にウットリする人たちだからです。そうでなくては、日々の厳しい訓練に耐えたりはできません。そういうアスリートの健気な心を利用して儲けようとしている人たちがいる。鬼畜です。

 さて今回の余話のテーマは、愛についてです。それも、見返りを期待する愛と、そうではない愛との比較です。恋愛をダシにしたコンテンツ商品も世に溢れていますが、お若い皆さん、自分が気付かないうちに誰かが造ったデートスポットへ誘導されていませんか。何かいらないものを「カワイイ」とかいって買わされたりしていませんか。真の愛の何たるかを知らずに結婚費用などに頭を悩ませてはいませんか。
 算命学余話は恋愛談義などしませんが、昨今の商業主義的恋愛誘導術について算命学からどのように見えているか、その辺りについて考えてみます。かつて東西に世界を二分していた資本主義と社会主義に対する算命学的な見方にも触れます。

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