算命学余話 #R109 「天南星を基礎から考える」/バックナンバー
算命学余話#R106で取り上げた書道家の見解を再び引用します。
肉筆という言葉がありますが、毛筆を使って字を書く習慣の薄れた現代人にとっては、鉛筆やペンの方が肉筆としてイメージしやすいかもしれません。しかし書道家にとっては鉛筆やペンでは肉の情報が不十分であり、活字に至っては論外だそうです。
肉の情報とは何ぞやということを説明するために、肉声という単語を引き合いに出します。肉声は人間の声であり、録音してあっても肉声と呼びます。肉声でない声とは機械音声のことであり、私も常日頃から気持ち悪いと思っている留守電や駅のアナウンスに多用される、あの合成音声のことです。
機械音声には「肉」がないので味も素っ気もなく、文章の内容以外に伝わってくるものは何もありません。しかし人間の肉声は十人十色で、一つとして同じものがないばかりでなく、その日の体調や心境、相手との距離感、高揚や焦燥、鬱屈や憤慨といった諸感情、その言葉遣いからは性格や生い立ち、周囲に対する好悪や価値観まで、話の内容には必ずしも必要ない情報がぎっしり詰め込まれています。つまり情報量が圧倒的に多い。
肉筆もこれと同じで、人間の手によって書かれた文字は活字に比べて情報量が圧倒的に多いということです。その肉筆を見れば、例えば手紙であれば、その手紙を書いている時の筆者の健康状態や心理状況、書いている時に急いでいるかとかゆっくり時間をかけているかとか、嬉しそうだとか苛立っていそうだとか、文面からは汲み取れない、或いは文面には敢えて書かれないその人の本心や性質を、肉筆は、その微妙な歪みや勢いによって何らかの情報として伝えている。活字にはそれがなく、筆圧の影響を強く受ける毛筆はその情報量が最も豊富だというわけです。
ちなみに、この書道家の見解では、歴史上の人物、特に思想家や宗教家の肉筆を見ると、その人物の社会との距離感が判るそうです。太い筆跡の人は筆を紙に押し付けているので、紙を社会と見立てた場合、その人が社会に対して肉迫するような生き方をしていることが推測できる。逆に細い筆跡の人は、筆を立てて紙に押し付けずに書くので、社会とは一定の距離を取って冷静に見つめる姿勢を堅持している。そのような情報が読み取れるのだそうです。
このような話を聞くと、急に肉筆でものを書きたくなってきます。毛筆はさすがに敷居が高いですが、せめてペンで日記でも書こうかという気分にはなりました。それは、その日記なり手紙なりが誰かに読まれることを前提としています。まあ数年後に自分で読み返しても面白いでしょうが、肉筆も肉声も、第三者が聴いてこそ、読んでこそ、その価値が上がります。要するに人間関係が前提なのです。
算命学余話でこのような話を取り上げたのは、算命学が気の交流を重視しているからです。気の交流とは人間関係そのもののことであり、人間関係が希薄な人は気の交流が滞りがちです。逆に人間関係が複雑すぎても人にとっては負担になります。宇宙の気が流れる程度に、程よい密度と距離感が肝要です。
運勢を上げたり宿命を適切に消化していくためには、他者との交流が不可欠です。それは社会との関係性をどうこなしていくかということです。書道が紙を社会に喩えるように、算命学も宿命内に社会とのかかわり方を暗示しています。そして肉筆が膨大な情報量を誇るように、宿命にも限りない情報が盛り込まれています。
今回の余話は、基礎から考える十二大従星シリーズのうちの、天南星です。天南星は強星です。強星は、宿命にたった一つしかなくても身強になります。それほど威力がありますが、便利な現代社会においては身強の出番は少なくなるばかりです。その膨大なエネルギーを消費できる現場が、便利な世の中には少ないからです。そんな身強が現代を生きるにはどうすればいいのか、その辺りも考えてみます。
天南星のエネルギー値は10点。その上を行くのはもう天将星と天禄星しかありません。天将星と天禄星の異常なエネルギーとその性質の違いについては、算命学余話の記念すべき第一回、#U1に述べた通りです。この両名に比べれば天南星はまだ可愛い方かとは思いますが、一般に天南星の性格はキツイです。なぜなら天将星・天禄星に比べて個性が強く、且つ老成はしていないからです。
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