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算命学余話 #G73 「天南星中殺を考える」/バックナンバー

 前々回の『算命学余話#71』は、三分法の初年期にまつわる基礎概念について述べました。人生の初年期の場所が人体図頭部に掛かっていることは、宿命の是非にかかわらず、初期教育や生活習慣に係る躾といったものがその後の人生全体を左右することを示唆しているのです。しかし、わざわざこんなことを算命学の理論を持ち出してまで言われなくとも、我々は日常生活の知恵からこの事実を知っています。つまりこれは、多くの人が賛同するところの「常識」というわけです。
 「常識に囚われない発想」は人生を豊かにするために是非とも必要ではありますが、その前提にはやはり社会全般が認める「常識」が厳然と存在していることは忘れてはなりません。なぜなら、人間は社会に生きる生き物であり、社会と完全に断絶する生き方はそのまま死を意味するからです。宿命を見れば、陰占も陽占も、いずれも人間関係を図式化しています。陰占の自分自身は日干であり、陽占の自分自身は胸部ですが、そこだけを見ても鑑定が成り立たないのは、算命学が人間の運気の高下を決定づける要素として人間関係、すなわち社会との係わりを重視しているからです。常識とは、その社会が概ね一致して善しとする価値基準ですから、拘泥しない程度に身につけておく意義は大いにあります。

 今回の余話は十二大従星天中殺の続きで、天南星天中殺を考えます。天南星は青年の星で、年齢としては18歳頃から30歳くらいを指します。概念としては社会人ビギナー。成人して自立して生きていけるだけの能力や知識を備えてはいるけれど、それを効果的に活用する大人としての経験は乏しく、失敗が多い。しかし失敗を重ねつつ経験値を上げていけるだけのエネルギーは膨大に備えており、非常に打たれ強い。身強星ですから当然です。
 そのエネルギーが無鉄砲な行動や反体制的活動に向かえば、ひと昔前の学生運動のように、革命だの打倒権威だのといったスローガンを叫んで走り回るようになるわけです。今日ではエコやSDG’sがこれに当たるでしょうか。そうした若々しいけれども根拠が疑わしい新来の主義主張を社会の真ん中に持って来ようとする彼らに対し、同じ身強星である天禄星(壮年)と天将星(家長)は、「危なっかしいな」「勢いばっかりで内実が伴ってないよ」と一歩引いて眺めている。この構図は、今も昔も変わりません。「今どきの若いもんは」というわけです。いつの時代も「Z世代」はいたのです。令和に限った話ではありません。
 そんな天南星を益々危なっかしくするのが、天中殺です。中殺された天南星とはどのように危なっかしくなるのか、詳しく見てみましょう。

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