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算命学余話 #G57 「天恍星中殺を考える」/バックナンバー

 文明の利器スマホの普及は2012年頃に始まり、現在はちょうど10年目に当たります。私の世代だと、スマホどころか携帯電話やパソコンもなかった時代に教育を受けた影響で、スマホがない生活というものに違和感はないのですが、若者の世代は生まれた時からスマホがあったりスマホを介して連絡を取り合ったりしてきたため、スマホなしの生活というものが想像できなかったり、スマホがないと何をしていいか判らなかったりすると言います。
 しかし、実際にそうした中高生を集めて山中のキャンプに送り、スマホを取り上げて生活させたところ、ごく自然にスマホなしの人間関係を構築し始めたとの報告があります。つまり対面式で、直に会話をし、凝視する画面の代わりに周囲の自然や人の動き、表情などに目を向け、耳を傾けるようになったと。たかだか10年足らずのスマホ生活は、数万年に及ぶ人類の生活習慣を変えるには到底至らなかったというわけです。
 中高生たちには一日に一時間だけスマホに触る許可が下りているのですが、誰もその権利を使おうとしなかった理由を尋ねられると、「皆と一緒に遊んでいる方が楽しい。スマホは後でいつでも見られるけど、友達といる時間は限られているので、こっちの方が貴重で優先順位が高い」と答える。その通りです。一度切りの人生は短いので、「今しかない」貴重な瞬間や体験が優先されるのは当然で、中高生らはそれを本能的に理解しているのです。すまり、スマホを介した世界の狭さや浅さが、体験として判っているのです。

 その本能について掘り下げてみれば、人間とは、より「密度の高い」「深みのある」刺激を求める動物であるという真実に行きつくのではないでしょうか。スマホの与える「内容が薄くて浅い」ネット情報よりも、なまの人間や自然に直に触れた時の刺激の方がずっと複雑で、奥が深い。なぜなら、いま呼吸している生身とは、そう簡単に解答や結論が得られない対象物だからです。
 しかしスマホ世代の若者に限らず、現代人がスマホに係る「薄くて浅い情報」を生身の人間関係より優先したり、その方が楽しい、為になると感じたりする背景には、スマホを手にした人間が安易な快楽に満足する程度に劣化したと考えるよりも、いま目の前にいる人間から受ける情報や刺激がスマホより更に薄くて浅い、という厳しい現実があるように思われます。つまり、「くだらない人間と接しているよりはスマホの方がマシ」というわけです。若者にとっての人間とは、大部分は大人のことですから、大人が中身の「薄くて浅い」人間であることが、現代人のスマホ依存を助長している。そう考えるのなら、我々大人は自分自身の人間としての魅力がスマホに劣らないよう、中身の研鑽に励むことが急務なのではないでしょうか。

 若者よりも大人を批判する前振りになりましたが、ここから先は中高生に対する辛口のツッコミになるので、バランスを取ったのだとお考え下さい。
中高生の年齢は、思春期に当たります。算命学はこの時期を天恍星(少年)の時代として区切っています。天恍星は肉体が大人に近付く一方、精神はまだまだ未熟で迷いが多い。到底大人とは呼べないけれども、ある程度の知恵や分別は備わっており、且つ生殖行為は可能な年齢です。その最大の特徴はナルシシズムだと、算命学は見做しています。つまり自我が備わっていながら迷いが多いせいで、往々にして自分自身を悲劇の主人公に見立てて恍惚としてしまう。そういう時期だと、算命学はバッサリ言い当てているのです。どうですか、皆さんも自分の思春期を思い出せば、そういう妄想にウットリした時期があったのではないですか。
 迷いの原因は、不確かな知恵にあります。人生経験が足りないせいで、せっかく蓄えた知恵や知識が実際にどう役に立つものなのか、実見していない。そうした「まだ証拠を見ていない」不安が天恍星を惑わせ、ああでもないこうでもないと堂々巡りをさせ、終いにはそれに疲れて「私って不幸」という安易な自己憐憫に落ち込むのです。この点については算命学余話#R103「天恍星を基礎から考える」で詳しく述べたので、そちらを参照下さい。
 ではこの天恍星が中殺を受けたらどうなるのでしょう。今回のテーマは、天恍星中殺についてです。

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