10年の友情は思い込みによって成り立っていた話
先日、友達に対しての違和感が許容値を超えたので、何日かかけて整理した。現時点で結論が出たので記念と後から見返すためにノートに書く。
要約はこれ↓
④「機転が利かない」です
友達は2人いて、どちらも高校の時からの友達で、基本的に3人で遊ぶ。仲良くなって10年になる。誕生日プレゼントをそれぞれに贈り合っていて、一緒に買いに行って支払いをする形をとっている。私のプレゼントを買いに出かけたときに「ん?」と思ったことが終わりの始まり。
終わりの始まりの詳細
欲しいものの在庫を確認していたら2人は自分たちのものを見にいった。
ものを取り寄せることになり、現物を確認してから支払いと言われたが、2人に再度足を運ばせるのは忍びないから先に支払いたいとごねたところ(終始2人はそばにおらず私がずっと交渉)、引き取りに来るならそれでもよいとなりかけていた。
自分の買い物が終わってから来た友達に、「お金なら渡すからあまり店員さんを困らせないでほしい(ママ)」と言われ、「では後日現物を確認してから払います」と言って退店した。
直後は「なんかおかしくね?」とだけずっと思っていた。
相談したり考えたりツイートしたりして、そもそも2人がそばにいればよかった話だし、私にはそこまで言われるいわれはないという結論に至り、そんな言い方しちゃう人たちと友達をやっていくのは無理だな〜と思った。ついでに、今までの違和感を全部紐解いてみた。
以下は友達の無理ポイントを解説したものである。エピソードは書ききれないので厳選した。
①おとなになって鈍くなった
鈍くなったというのは、
・常識とされていること(以下常識)を無批判で内面化するようになった
・規範を表面でなぞるようになった
・キャラ付け/ロールを理解しなくなり、もとからの性格と認識するようになった
などである。
高校生のときは、全員ひねくれていて尖っていて、それがよいと思っていたのだが、いつのまにか鈍くなってしまった。「常識と言われていることは必ずしも正しくないし、全体的に見れば間違っているとさえ言える」というような共通見解があったのだが、5年前くらい、友人たちが学生でなくなってから、徐々になくなっていった。
私は今在宅で働かせてもらっていて、それなりに交渉しつつ甘やかしてもらいつつそうなったのだが、その交渉の様子や現状を話すと「それはどうかと思う」や「社会はそんなに甘くない」と言う。彼ら以外の他人にそう言われても「それはそう」と言えるのだが、2人に対しては10年間私の何を見てきたのかと思ってしまう。
そして、私は高校時代、「軽率でそそっかしく、口が悪い」キャラだった。キャラとして作るとかなりオーバーにやっても許されるので、それにかこつけて悪口を言いまくっていた(本当によくなかった)。あとは落ち度があった方が愛嬌があると思っていたので幼少期からあった軽率でそそっかしさを強調するような振る舞いをしていた。高校生当時は多かれ少なかれ周りの人もそうしていた。ナイーブなこどもが多かったので、批判されても「批判されているのは自分ではなくキャラ」と思うことができたから。
そのようなわけで、高校では私は「軽率でそそっかしく、口が悪い」、Aは「基本的に流れに身を任せるが言うときは言う」、Bは「怠惰だがたまにシャープなことを言う」というようなキャラだった。3人になると全体的に「口が悪い」と「言うときは言う」、「シャープなことを言う」の矛先が同級生や世の中やルールや仕組みに向いていた。それが鈍ってしまったのは今まで書いてきた通りだが、今考えると、「キャラ」の前半の部分が具体的な行動として目につくのは私だけだったので、いつからか2人は「それが治らない」と思うようになったのだと思う。私の躁もあるし。
それを茶化していい、馬鹿にしていい、と思うようになって、果ては見下す材料にしたのではないかなと思った。ミスのリカバリーの話など面白くないから話さないし、リカバリーが上手くいっちゃった話などさらに面白くないので「なんとかした!」と言っていたのだが、それすら伝わっていなかったのだと脱力した。
もう修正するのも面倒だが、そもそも「キャラ」もわかっていなかった可能性が浮上してきてゾワゾワしてきた。
②同じレベルで思考、議論することができなくなった
前項の3点目にも通じるのだが、2人から俯瞰的なものの見方がなくなった。テーマで言うと、2年前くらいから社会善や善く生きる、全体最適というようなテーマの話をできなくなった。話題を振っても、もうアラサーなんだからさ、とか大人になろうよ、とか言われるようになった。私は、大人であるからこそ社会に責任を持つ必要があると思っていたが、2人のことは嫌いではなかったので「つまんないこと言うようになっちゃったな!」と思うだけにとどめていた。2人にとって、大人になることは鈍くなることなのだった。
私の発言を正しく理解してもらえていないな、と思うことも増えた。もちろん私の言葉選びが適切でなかったときもあったのだろうし、私が大したことを言わないと思われていたのだろうし、なにより、前提となる価値観が大きくずれていたんだろうと思う。おそらく「物事はできうる限りよりよくする必要がある」みたいな価値観あたりが。
③実はそんなに賢くなかった(気づかなかった私も悪い)
私は、どんなに気を遣えなくてもダサくても2人と関係を続ける必要があると思っていた。賢くて観察力があり、自覚できない私の状態がよいかよくないかがわかるから。精神状態に合わせて適切なアドバイスをくれていたので、頼りにしていた。まあ最近は徐々に精度が落ちてきていて、元気(躁ではなく)な時に「大丈夫?」と連絡が来たりしていたが。
前述の常識を疑うスタンスの消滅、「キャラ」を理解していなかった可能性、俯瞰ができなくなったこと、善についての議論ができなくなったことにより、私の中での賢い判定はなくなった。
何度も何度も考えているうちに、気が遣えなかったり機転が利かなかったりするのはそもそも脳のリソースも観察力も足りないことによるんじゃないの?と思ったし、センスがないのは(ある程度は好みもあるが)、TPOを理解していないのに加えて知識も足りていない(それくらいダサい)ことの証左だから「賢くない」の裏付けじゃない?と思い至って絶望している。
さいごに
④と⑤については細かく書くとただの悪口になってしまうので、③で触れた内容から察してほしい。
ここまで書いていて、自分のあまりの思い込みの激しさに吐きそうになっている。あらためて自分は自己暗示のために言葉を連ねるタイプだと思った。
まあ色々あったし絶望もしたが、かくも人間は、自分は、現状維持をしたがるものだと気づけたし、最終的に気づいて精神的に損切りができたのでよしとする。
人間関係は直感が最重要だと改めて理解したできごとだった。
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