「老害」なるものが生まれるとき
近頃とみに目にする機会が増えた「老害」という語。
そもそも「害」という字が穏やかじゃない。何せ、同じ人間を「災害」や「害虫」に類する存在として喩えるわけで、この言葉を投げつけるということは、その相手に対して「もはやあなたを人間とは認めません」と宣告しているに等しい。
もちろん、そこには相手もまた自分を一個の「人間」として扱ってくれていないという不満や抗議の気持ちが含まれていることもあるだろう。意趣返しとしての「老害」呼ばわりの背後にある心情や事情を全く黙殺してしまうことも適当ではない。それでも、相手を自分と同等の存在としてみなす敬意を欠くような表現は、まあ使わない方が良いというものだ。
ただ、それは「老害」と呼ぶ側について言うべきことであって、そう呼ばれる側あるいは呼ばれ得る側が持つべき気構えとなると、また話が違ってくる。
おそらく、「老害」と呼ばれる人の多くは決して若年者を蔑視したり、彼らに対して敵意を抱いていたりするわけじゃない。単に、若い頃から時間をかけて築き上げられた自分なりの価値観や規範意識に凝り固まったまま新しい考えを受け入れられなかったり、その価値観に照らして良いと判断されることを若年者にも勧めたりするような点が、拒否感を抱かれる原因になっているに過ぎない。
だから、性格や年齢にかかわらず、誰もが潜在的には「老害」となり得る。新しい概念や規範は常に生まれ続けていて、それが社会的な常識や標準に転じる瞬間はこちらの事情・状況などお構いなしにやって来るからだ。
社会に生きる以上、俺達はそうした変化に常に晒され適応することを求められる。それにもかかわらず、実際には変化を嘆いたり嘲ったり恐れたりするばかりで、自分の古びた価値観が現代に通用しなくなっていることにはなかなか思いが至らない。
このように、「老害」という現象を避けるのは難しい。
そしてさらに厄介なことに、社会には「老害」の深化を触媒するような「普遍的構造」も存在する。
社会というのは多くの場合、歳を重ねて経験を積めばほとんどの人が経験の少ない若年者よりも高い成果を、それも少ない労力で生み出せるようにできている。そこで、必然的に旧来のやり方に長く親しんだ人の方が高く評価され、上の職位を得て部下を指導する立場に就くことがほとんどだ。
そうした人達には当然、自分が取り組んできたことへの自負がある。だから、古い評価尺度や手法の元でパフォーマンスを最大化できるようなやり方を部下に教え、熟達のための努力を求めることになる。
以下のような極端な例を考えてみよう。
経理畑で30年以上働くA氏は、類稀なる卓上電卓の使い手だ。入社以来、毎日何百回となく電卓のボタンを押し続け、その速さと処理の正確さで右に出る者はいない。電卓を手渡された若手社員が頻繁に入力を間違えては計算をやり直したり、機能を熟知していないために非効率的な計算で時間を浪費しているのが彼にはどうにももどかしい。そこで、親切心から彼らに電卓の効率的な使い方やコツを手解きしようとする。
当然、若手社員にとってはそれが煩わしい。何せ、Excelの表計算機能で関数やマクロを組んでおきさえすれば、データ入力された数値に対して即座に計算結果が返される時代なのだ。それを一々電卓で加減乗除して計算値を求めるのは非効率極まりない。
ところが、A氏はExcelの使用を認めようとしない。万が一関数に誤りがあったらどうするのか。また、入力された数値に誤りがあったらどうするのか。演算ごとに計算結果が返される電卓での手計算なら、明らかな異常値が返されることで入力や計算方法の誤りに気付きやすい。翻って、正しいことが前提とされている関数に従って処理される演算の最終結果しか返されないExcelの計算では、過程のどこかで不備が生じていても検出が困難だ。そして、仮に異常値に気付いたとしても、入力から関数構築までの過程全体からその発生要因を特定するのには骨が折れる―そうしたことをA氏は主張する。
もちろん、Excel運用において見られるようなミスが電卓の使用で完全に排除できるわけじゃない。電卓だってボタンの押し間違いは発生するし、計算の方法や電卓の操作を誤ったまま気付かない場合も当然あるだろう。
ただ、電卓での計算に熟達したA氏にとって、そのようなミスはほとんど起こり得ないものだ。ゆえに、Excelでの計算が孕むリスクの方をどうしても過大に評価してしまう。
A氏の話は創作だが、多くの人はこれを滑稽に感じたことだろう。
ただ、笑ってばかりはいられない。妄執の滑稽さというのは、実は相対的な問題に過ぎないからだ。さすがにA氏のような人物を現代において目にする機会はないだろうが、信奉する価値観によっては誰もがA氏と同じ立場に置かれ得る。
こういう例ならどうだろうか。
国際業務に精通したB氏は当然ながら英語に堪能だ。海外の担当者や顧客との会話や文書・メールのやり取りは日本語と比べても遜色のないレベルの英語でこなすことができる。
けれども、彼の部下はそうはいかない。海外からの英文資料やメールを読むのには日本語の倍以上時間がかかってしまうし、うまく内容が読み取れていないことも少なくない。まして英語での会話や文書作成となるとさらに覚束なく、言いたいことが十全に伝えられる水準には程遠い。
英語に不慣れなせいで業務が滞っている部下に業を煮やしたB氏はもっと英語を勉強するように指示し、効率的な学習法や参考書まで勧めてくる。けれども、今は翻訳アプリを介することでほとんどの文書が即座に英語から日本語へ、あるいは日本語から英語へと変換できてしまう時代だ。部下としてはコミュニケーションの手段に過ぎない英語に磨きをかけるのに時間を費やすぐらいなら、もっとほかの技術や知識を身につけたいと考える。
けれども、B氏は翻訳アプリの使用を認めようとしない。アプリの変換精度には信用が置けず、仮に誤訳が生じていた場合、英語力がなければそれに気づくこともできないからだ。さらには、言語は単なる情報伝達の道具ではなく、人の思考や文化の形成に関与するものである。英語を学ぶということは、それを話す人の考え方、およびその背景にある文化を理解することでもあり、翻訳アプリが発達しても言語学習の意義が色褪せることはない―とB氏は力説する。
ここでもやはり、純粋な語学力のみに依拠したコミュニケーションにおいて生じ得る過誤の存在が見過ごされている。第二外国語としての英語に習熟した人は翻訳アプリのAIよりも高精度で英語を運用できるという前提は正しいだろうか。あるいは、外国語の習得がその国の文化や話者の思考を理解することに繋がるという主張にはどこまでの正当性、妥当性があるだろうか。
もしかすると英語に精通したB氏にはそれらの点に関して絶対の自信があるのかもしれない。ただ、その水準を押し付けられる部下としてはたまったものではない。そう感じる人も少なくはないだろう。
さて、A氏の例はほとんどの人にとって馬鹿げた話にしか思われなかっただろうが、B氏の例はどうだろうか。AI技術の精度向上と社会への浸透が急速に進む現代においては翻訳アプリの活用に肯定的な人が多く、B氏のようにその使用を毛嫌いして認めない姿勢は行き過ぎだという見方がほとんどではないか。ただ、他方で「翻訳アプリがあるから英語は勉強しなくてもいい」という主張については同意しかねるという人も少なくはないだろう。
電卓や英語学習の絶対的優位を主張して譲らないのは頑迷の極みだが、それとは逆にExcelやAIの力を盲信し、アナログな技法の意義や優れた点を認めないのも同じくらい狭隘な精神だと言えよう。両者の間にあるのは信奉の対象が古いか新しいかの違いに過ぎず、ある価値意識に拘泥して他方の価値を許容しないという点では同じ穴の狢である。この点で、他者を「老害」と揶揄する側もまた「老害」と同様の精神構造を潜在させているのだ。
なお、「老害」の滑稽さを強調するためにここまでは極端な例を提示してきたが、もっと微妙な新旧の価値観対立ならいくらでも挙げられる。宿題や定期テストの意義を巡る日常的な議論から、財政規律や国防といった国家レベルの議論まで、新しい考え方が生じればそこには必ず旧来の思想との間に摩擦が生じる。ただ、それはどちらが正しいのか、より正確に言えばどちらが現代の状況により良く適合するのか、簡単には判じ得ない問題だ。この場合、宿題は必要だとか、国の財政赤字は解消されるべきだといった主張が直ちに「老害」とみなされることに抵抗を感じる人は少なくないだろう。このような問題を論じるには、支持する説の新旧を問わず、各々が自身の価値観や思考を柔軟な変化への可能性に向けて開いておくことが大事になる。
確かに、古いものが時代に合わなくなるのはやむを得ないことだ。ただ、その一方で数々の古典作品のように時代を越えて読み続けられる文学や、折に触れて引用される不易の思想は現実として存在する。
また、新しいものだからといって時代に合っているとは限らない。時の流れによる淘汰選別を経ていない技術や思想のほとんどは、振り返ってみれば一時の徒花に過ぎず、うたかたのごとく消え去って行く定めにある。
どの時代にも通用する無謬の真理を期待しないのであれば、俺達が為すべきことは絶えざる進歩の追求、そしてその修正だ。現在の社会規範や制度、技術に問題があるならばそれを改めなければならない。それと同時に、新しい規範や技術が生み出すもの、破壊するものを注視し、それによって新たな問題が生じていれば再度の修正が必要になる。その修正の手法には当然、過去への回帰も含まれ得る。「温故知新」とはよく言ったものだ。
かつての社会では世代間の分業によって両者の平衡が維持されていた。過去の成功や豊かな経験から従来の規範を重視したがる中高年層に対し、若年者は旧弊に反発しながら革新的な生き方を模索する。その関係はある種の緊張を孕みつつも、若年者は目上の者の経験や知識に敬意を払うことによって、中高年者は荒削りな若者の無謀さを尻拭いすることによって、社会の安定した漸進を可能にしてきた。
「老害」という言葉は、そうした敵対と協調とが併存する均衡を破壊し、社会を対立の色に染め上げようとする悪意に満ちた言葉であると思う。もちろん、旧弊に固執する人々の考え方をこそ尊重すべきだという意味ではない。ただ、偏屈で狭隘な心を持った人であったとしても、その価値観が時代にそぐわないという理由のみで人としての尊厳を認められないのはさすがに行き過ぎというものだ。互いに対する最低限の敬意が保たれることが、社会の安定装置を維持するうえでの最後の砦となる。
最初に述べたように、「老害」とは年齢にかかわらず誰もが陥り得る現象だ。経験や自負に裏打ちされた価値観を重視するあまり、それが現在の状況にそぐわなくなっているという現実を受け入れられなかったり、他の考え方を認められなかったりする狭隘さは誰もが潜在的に持ち合わせている。高齢者に対して「老害」という言葉を用いる人もまた、その意味では同じ過ちを犯しているのだ。
誰もが「老害」と呼ばれ得る。世代間の分断が顕著な現代であるからこそ、その自覚が全ての人に求められるのではないか。
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