俺のクソ高い"自己肯定感"
みなさん、「自己肯定感」は満たされてますか?
僕は満たされてます
ことあるごとに
「自分は自己肯定感が高い人間である」
ということを言ってきていますが
これだけ「自己肯定感」に悩む人が多い現代社会で
コミュ障陰キャキモオタ中年男性という社会のゴミである僕が、何故ここまではっきりと「俺は自己肯定感が高い」と言い切れるのか
言語化も兼ねて自分語りしたくなったので書くことにしました
■ただ、結果のみが真実
『水星の魔女』の決闘前口上ですが、いい言葉ですよね
自己肯定感が低くて悩んでる人の多くは、恐らく自分の現状や何かの「結果」が思い通りになってないからだと思うんですけど
「結果」って思い通りなるわけない、変えることができない真実なんですよね
例えば「志望校に受からなかった」という事象は
自分の能力、勉強時間、運などから出力された当然の「結果」でしかなく
それに対して劣等感を抱いたりするのは
1+1が2であることに劣等感を抱くようなもんなんです
加えて僕は「すべての生き物が常に最善を尽くしている」と思っています
志望校に受からなかったとき「もっと勉強しておけばよかった」と思うかもしれませんが
それは「これだけの勉強量で受験に臨もう」という自分の判断がまねいたものであり、そういう判断力含めての「結果」です
つまり「勉強不足で志望校に落ちた」という結果は、自身の「必要な勉強量を推し量る判断力」や「やりたくない勉強をやる忍耐力」等の能力も含め最善を尽くした「結果」なんですよね
なので、過去の「結果」はどうやっても変わることがないんです
これもガンダムのセリフなんですが
額に入れて飾りたいくらい好きなセリフがあります
『鉄血のオルフェンズ』マクギリス・ファリドの
「消えない過去に縛られて、輝かしいはずの未来は、全て愚かしい過去の清算のみに消費される」
というセリフ
このセリフ自体は未来を過去の精算に消費しまくってる自分への自虐を込めて言ったものですが
とにかくいい言葉ですよね
そう、過去は消せないし結果は変わらない
変えられるのは未来だけ
「あのときああしていれば」なんてことで悩んで自己肯定感を毀損するのは愚かなことです
何故なら「あのとき」が「ああなる」ことは絶対に有り得ないから
なんか意識高い感じになってますが
ようはサンクコストに囚われないようにしてるってことですね
■自己評価が低い
僕は冒頭で自分のことを「コミュ障陰キャキモオタ中年男性という社会のゴミ」と言いました
これが僕の自己評価です
そして客観的事実がどうであれ自分は「コミュ障陰キャキモオタ中年男性」であるという自己評価から上げないようにしています
今の「普通の生活」は
腕時計の部品がバラバラに入ったプールをかき混ぜたら腕時計が完成するくらいの奇跡的な確率によって成立したものであり
本来であれば既に路頭で野垂れ死んでるものだという意識で生きてます
マズローの5段階欲求ってあるじゃないですか
あの有名なピラミッド
僕のような無能なゴミカスは明日野垂れ死んでるかもしれないので、ピラミッドで言うところの下の1〜2段の欲求が満たされておらず
上位の「承認欲求」やら「自己実現欲求」みたいなものあんまりないんですよね
だからそういうノイズに自己肯定感が脅かされない
もしくは逆に
他人と比べればいくらでも上はいますが
自己評価に比べればかなりマシな生活してるので「自己実現欲求」まで満たせちゃってるんですよね
だから雨風しのげて飢え死にしない生活してれば自己肯定感は満たされるんです
そういえば、心理学者のレオン・スティンガーさんという方の「社会的比較論」によれば自己評価が高い人ほど自分より上の人間と比較し、逆に低い人ほど下の人間と比較するそうです
確かに僕は特定個人と比較するときはたいてい自分より下の人と比べます
「末期癌でもないし、多重債務者でもないし、ホームレスでもないのでヨシ!」
みたいな感じです
そもそも"特定の他人"と比べない
他人の存在を「まぁ俺には関係ねーしな」と高速で切断処理してしまう
あなたはタイソン・フューリーに嫉妬しますか?
タイソン・フューリーというのはボクシングWBC世界ヘビー級チャンピオンなんですが
別に嫉妬しませんよね
「誰それ?」と思う人もいるでしょう
あなたより明らかに富も地位も名声も得ている人間が存在するにも関わらず、なぜその人に対し嫉妬しないし劣等感を抱かないし、人によってはその存在を知りすらしないのでしょうか?
嫉妬しない理由としてはだいたい
「ボクシングに興味ないから」
「レベルが違いすぎるから」
あたりだと思います
前述した社会的比較論によれば人間が劣等感を抱くのは
「自分が関心があるセクション」かつ「自分と近しいポジション」の存在だそうです
僕は基本的に自分の半径数メートル程度にしか興味がないし、年収1000万と石油王を同じレベルで「スゲー」って「格の違う相手」として切り離しちゃうので、そもそも嫉妬したり劣等感を抱くような相手がいないんですよね
特に、自分が負けそうなことに関しては他人と比較しない
例えば偏差値50以上の大学を出ていれば
(海外大学卒とかは一旦置いといて)理論上は学歴バトルなら勝てる確率が高いです
なので(今どきそんなバトルになることないですけど)学歴バトルなら受けてやらんこともないと思いますが
一方「容姿」に関してはキモオタなので、容姿バトルすれば負ける可能性が高いです
その時点で「容姿」に関する興味を切り離します
自分の容姿は人より劣ってる、うんその通り、当たり前でしょ、だから何?
というマインドセットをしてしまう
結果「お前は(○○より)キモい!」と言われるのは「お前はタイソン・フューリーよりボクシングが弱い!」と言われるのと同じものになってるわけです
そりゃそうでしょ、何当たり前のこと言ってんだコイツ、と
ついでに自分にとって容姿に対してリソースを割くのは無駄なのでファッションに悩まなくてもよくなるというメリットもあります
人間「自分にもワンチャンあるかも」と思うことに関しては「悔しい」という感情が生まれてしまうのです
人より劣っている部分に関しては自ら積極的に「ハイハイ、もう無理で〜す。ノーチャンスでーす」って切り捨てていくことで心穏やかに過ごせるのです
とはいえ、何もかにも才能ないので諦めます、じゃ生きていけません
例えば「金稼ぐ才能ないので年収ゼロでもどうでもいいです」じゃ生活できませんよね
そういうもの「一定以上の水準じゃないと生命維持に支障をきたす」ような事柄に関しては「平均」や「中央値」のみと比較するようにしてます
絶対に特定の「アイツ」とは比べたりしない
そんなことには意味がありません
同年代の平均や中央値並の収入があればオッケーなんです
仮にそれで生活が苦しかったとしても
平均や中央値並の世帯収入があるにも関わらず生活が苦しいのは社会が悪いので自分は何も悪くありません
また、そういう事柄以外も平均や中央値とだけ比較してるとTwitterでいいねが貰えないとかの悩みもなくなります
だってこの世に存在する全ツイートのいいね数中央値は0だから
(何もデータない予想ですけど)
■どうしてこうなったか
僕の性格が何故こうなったかは、ひとつは学生時代の経験なんじゃないかと思います
自分含めインターネットにいる人はみんなキモくて同級生はおろか教師にさえ嫌われ青春という二文字とは無縁の学生生活を送ったものかと思います
でもみなさん勉強はそこそこできたんじゃないんでしょうか
誰かをいじめたり、隠れてタバコを吸ったり、盗んだバイクで走り出したりもしてないですよね
でもちょっと失敗や過ちを犯したら他の人よりひどく叱られたりしたんじゃないでしょうか
席替えでたまたま隣になっただけの女子に泣かれて何故か自分が悪者になった経験とかあるんじゃないでしょうか
そうなると思っちゃいますよね
「なぜ正しい俺が不当に嫌われてたり、低評価を受けねばならんのだ」
と
わかりますわかります
で、そこで僕は思ったんですよ
「他人からの好感度や評価を自分の努力と無関係じゃね?」って
他者からの評価をどうにかしようとするのは、天気や時間をコントロールしようとするようなものだと思ったんですよね
だから自分が他人からどれだけ嫌われようが、気に食わない人間がどれだけチヤホヤされようが
自分にはどうすることもできないただの"事象"であって
それによって自己肯定感を毀損することはありません
今日の天気が雨であることや
一日が24時間であることで
(それに対し「嫌だなぁ」と思うことはあっても)自己肯定感は失われませんよね
こうして、他人からの評価をほぼ無視し「自分が納得できるか」のみ考えて生きているので
自分さえ自分を肯定していれば、自己肯定感は常に満たされているのです
そもそもなんですが
「自分さえ自分を肯定していれば、自己肯定感は常に満たされている」
ってのが「自己肯定感」の本質であって
世の中の「自己肯定感が満たされない」と言ってる人のほとんどが「他者肯定感(承認欲求)」が満たされてないってだけのことが多いんですよね
"自己"肯定感に"他人"の感情を持ち込むのは不毛だと思うんですよ
何故ならどうにもならないことだから
もうひとつ自分がこうなった理由は世代もあるんじゃないかと思います
僕はいわゆる「ゆとり世代」※というやつなんですが
割とこの世代って社会に対しての「諦め」が強い気がするんですよね
※正確にはゆとり世代とはかなり広い範囲を指す言葉ですが、ここでは20代後半から30代半ばくらいまでの昭和末期から平成初期に生まれた世代を指します
これは某経済学者の「高齢者は自決すべき」みたいな発言が炎上していたときの僕のツイートです
ゆとり世代って努力が報われて、社会が良くなって、みんな幸せになるみたいな価値観が他の世代に比べて全然ない
「失われた三十年」って言葉ありますけど、ゆとり世代って今アラサーなので
産まれてから今までずっと"失われた"時代しか知らないんですよね
ちなみにこの言葉僕が10代の頃には「失われた10年」と言われてましたし、20代の頃には「失われた20年」と言われていました
なので自分が死ぬ頃には「失われた80年」とかになってるんだろうと思ってます
まぁそんなこんなでできあがったのは「他人や社会にまったく期待しない、むしろ敵である」という思想の人間(自分)です
社会は俺からケツの毛まで搾取してやろうと思ってるし
人類は俺の不幸を望んでいるし
俺が嫌いな人間ほどいい思いをしてるし
食パンがジャムを塗った面を下に落ちる確率はカーペットの値段に比例すると思ってます
それが当然なんです
他人から自分が評価されない、あるいは他人が自分より評価されるのも当たり前のことだから気にすることはないんです
当たり前のことは「自己肯定感」には関係ありませんから
■まとめ
なんかいろいろ語ってきましたが
結局は「他人に(自分にも)期待しない」「過去は変えられない(ので諦める)」という当たり前のことを細かく書いただけですね
あと、世の中には結構な数で「人の自己肯定感を下げることによって利益を得ている」存在がいるんですよね
いわゆるコンプレックス広告やその類似物のことです
顔が良くないと人生終わり
ブランド品持ってないと見下される
投資で不労所得を得ないと負け組
みたいな情報は「この霊験あらたかな数珠を買えば勝ちまくりモテまくりです」と同レベルの情報なので聞く耳を持つ必要がありません
「何者」かにならないと価値がないみたいなこと言ってくる連中の言葉は無視しとくべきです
そもそも「何者」って言葉嫌いなんですよね
「何者」になりたい、「何者」にもなれないって意味不明じゃないですか
自分が何者かって、そんなの「俺」に決まってるじゃないですか
「あなたは何者ですか?」と聞かれても、「俺の名前はあやたりゅんだ!」で終わりの話ですよね?
結局この「何者」という概念も「他人」からどう思われるかが全ての概念なんですよ
でも前述した通り他人からの評価や好感度を自助努力でなんとかするのは不可能です
そもそもみんな自分に対してそんなに興味持ってません
「世間体」や「他人の目」みたいな概念は実は自分が作ってるだけのものであることがほとんどです
「他人」という(思い込みで存在させてしまっている)概念を捨てれば無敵の自己肯定感は簡単にできあがります
何か状況に不満があるとき「他人を変えるより自分を変える方が容易い」みたいなことよく言われますが
もっと簡単なのは「他人」を切り捨てることです
みなさんもさっさと「他人」を切り捨てて
楽しい自己肯定感激高ライフを送りましょう
ウンコには勝てなかったよ
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