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我ながらいい仕事
我ながらいい仕事してるな、なんて思うことがあります。
営業中に、お客さんに混ざって風呂に入っている時。
おのおの、身体を洗っていたり、湯船につかったり。どういう間柄かは知らないけれど、ほぐれた気持ちで他愛もない会話をしているお客さんたちがいたり。そんな様子を眺めながら、風呂に浸かっていると、嬉しくなる。
湯船に浸かっていると、自分の店の風呂、という意識が遠のいていく。
"これ自分たちの仕事でできあがってるんだ"と、ふと思い出したとき。
なんていい仕事してんだ、俺たち...!!
と、また明日への活力が湧いてきます。「銭湯を日本から消さない」という想いが込み上げてきます。
これは、銭湯をはじめたときにそうあって欲しいと思っていたことで、言ってしまえば、想定内の理想の喜びです。想定内とは言え、めちゃくちゃ嬉しいんですが。
自分が銭湯に求めたものは、この程度のささやかな営みや豊かさです。銭湯を復活させていくことで、人々に与えられるものというのは、想像通りこれくらいの温かみです。(それがとても重要なのですが)
例えば、そこから人間関係が良き方向へ発展するとすれば?
おめでたく、結ばれる方が現れてくるわけです。
社内結婚があったり、お店を通して知り合った同士が結婚したり、結婚に至るまでにこの銭湯に通ったことがとても大切な時間になっていたり、、、
実際、そういう方々が、おめでたく現れてしまいました…!!
先月、社内結婚した2人がいました。これには、嬉しさもありますが、ちょっと責任も感じてしまいます。社長、頑張らねば。(゜д゜ )
そして、先日。
源湯で出会った2人が源湯で結婚パーティーを開いてくれました。招待された方々の中に、常連さんの姿もあったりして、とてもほっこりするパーティーでした。
他にも、思い出の場所なのでと、ウエディングの写真を撮りたいというカップルも何組かいらっしゃったりもしました。
10年も店をやっていれば、自然発生するものなのかもしれません。
しかし、これは想定していなかった大きな誤算です。
もし、継業してなければ、お客さんたちがほのぼの風呂に入る風景がなかったどころか、そこで出会い、結ばれる人々もいなかったわけです。そもそも、自分とも全く無関係の人生になっていたわけです。
誤算としたのは、もし,だったら,出会わなかったかもしれない、なんてことまで、銭湯始める時に考えていなかったからこそ、人の人生にまで大きなキッカケを与えてしまうのは、荷が重いというか、そんなの聞いてねぇ…!という良い意味での誤算。誤算だからこそ、味わい深い。
銭湯を引き継いで、誰かのために風呂を沸かす。
それだけのはずが、誰かの人生までも方向づけてしまっていることに、少し怖さも感じてしまいます。自分がはじめたことが、誰かの人生に大きな影響を与えてしまうこと。良い方向に進むように願う他ありません。もちろんその努力もしますが。
そういう可能性やある種の責任は、社会活動をしている以上、誰しもが持つものだとは思います。
銭湯のためであることは、誰かのためであること。これくらいの温かみが、誰かの人生にとってはとても重大であること。
そんな単純で大切なことに気づいたこの頃です。
我ながらいい仕事してるな〜
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