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【原稿公開!】TEDx にスピーカーとして登壇した話

※2700字ほどの感想文が続いた後に、今回のスピーチ原稿を公開してあります。早よ読みたい方は、スキップして下さい。

TEDx Hamamatsu に、スピーカーとして登壇してきました。 

2024年のハイライトになりうる経験でした。

TEDx(発音はテデックス)といえば、意識高めなスマートなスピーチイベントのイメージでしかなかったのですが、その裏側、ボランティアで運営されていることやピュアな熱量に触れることができ、人類の知財共有イベントという認識に変わりました。

スピーカーとして参加してみて、結果、良かったです。正確には、やりきって良かったという感想です。

そもそも今回、TEDx出演のオファーを受けた理由は、

・地元の浜松での開催であること
・スピーチやプレゼンの苦手意識を克服すること

でした。

浜松(静岡県西部)の銭湯が、みどり湯さんとみよし湯さんの2軒になってしまった今、なにか浜松で銭湯のことをできないかとずっと考えていました。

そこで、このTEDxに出て喋れるなら、浜松の方々にも銭湯の話を伝えられる機会になりそうだと思ったわけです。

また、みどり湯さんでペンキ絵を描くという企画をしているので、その前振りも兼ねて、少し打算的なところもあり、登壇を決めたのでした。(みどり湯さんのペンキ絵企画についてはまた告知します。)

そして、もう一つ。

スピーチ苦手の克服。
実は、めちゃくちゃ人前に出るのが苦手で。小学生の頃は、授業中に挙手して発表するのすら無理で、学校に講演にやってくる大人を眺めては、自分も大人になれば、人前で一丁前に喋れるようになるのかな、いや無理だなと思っていました。

今は、テレビやトークイベントに出る機会がこれまでにあり、かなり慣れましたが、これは相手があってのこと。発表するという行為は、今もとても苦手意識があり、トークイベントの依頼があっても、対談か質疑のみという条件、プレゼン形式NGで受けてきました。

自分なりにちょっと思うこともあり、この機会に克服したいというか、挑戦したいなという気持ちになって、そんな動機で受けることにしたのでした。

TEDxは、本番のスピーチに向けて、TEDxサポーターの方々が伴走するかたちで構成やスピーチの練習に付き合ってくださります。5月末ごろから、1〜2時間のミーティングを15回ほど重ねてきました。

正直、こんな大変なのか!と思いましたが、みなさんもボランティアでやっていらっしゃるのだから、ほんと頭が上がらない。

当初は、「インディーと豊かさ」というテーマで原稿を書いたのですが、スピーチにするには難しずぎるテーマでこちらはお蔵入りすることに。

原稿制作の過程で、改めて自分の考えていることを言語化できたので、お蔵入りしたとは言え、実りある副産物ができました。

「他者とのつながり」と「ささやかな豊かさ」

というテーマに書き換えました。
文章を書くのは、140字に魂を込めるツイ廃なだけあり、苦手ではないのですが、スピーチ原稿となるとかなり難しい。文章と口語のはざまというか。そもそも、文章は冗長的に書いても、まぁ、成立する。こんな様に。

文章すぎると口に出した時にぎこちなかったり、覚えきれなかったり、相手に伝わり難かったり。

ちなみに、15分前後の目安のスピーチとのことで、3600〜4000文字くらいのボリュームになります。

原稿ができあかってから、口に出してみて、言いやすいように、口が覚えやすいようにと書き換えていきました。

そして、ようやく、スピーチ原稿ができあがるわけです。

今回のスピーチは、スライドを説明する形式ではなく、ほぼ語りで勝負するという、スピーチ苦手なヤツがやったらあかんやつをやりました。

スライドありきではなく、文章から作っていったのでそうなったわけですが、スピーチにも色々な方法があるなと勉強になりました。筋書きにアドリブで喋るわけではなく、今回はガチガチの原稿の覚え込みです。

改めて、自分は物覚えが悪いなと受験勉強のことを思いましました。練習していても、集中力が続かない。すぐにツイッターを見てしまって、集中力が続かない。とにかくツイッター。集中力が続かない。

集中力がないなりに、練習をぶっ続けていると、ゲシュタルト崩壊してきて、何を言ってるのか分からなくなります。適度なインターバルが必要だったりします。結果的に行き着いた練習方法は、チャリを漕ぎながら唱えるという手段でした。

本番の3日前に、原稿を見ずに、ぎりぎり唱えられるようになりました。

もちろん、スピーチなので、唱えるのではいけないわけで…。 

リハが前日に丸々1日あります。
本番含めこの二日間、他のスピーカーの方々とずっと共に過ごします。なので、無意識なんてレベルではなく、明確な共同体意識が芽生えます。スピーカーの方々も個性強い方なので、それはそれで、すごく面白い時間が過ごせました。特に、カピバラのことに無駄に詳しくなりました。

そしての本番さながらのリハ。
舞台上、強烈なスポット照明、マイクを通した自分の声、座席が並ぶ広い空間、自意識的な緊張感。

これまでの練習でも完璧とは言えないギリギリな感じだったので、そんな異空間の会場では飛んでしまうわけです。しかも、これまでに飛ばなかった箇所で飛んだりするので、これには焦る。

最後の悪足掻きで、前夜はホテルを抜け出して、浜松の寝静まった住宅街を2時間ほど徘徊しながら、ぶつぶつと唱えていました。

そして、本番。
会場にお客さんが来場され、スタッフの方々も慌ただしく動かれているのを見て、本番なんだなと。先のスピーカーのお二人が、呼ばれていき、緊張ほぐしで口に含んだのがウーロン茶で、さらに口が渇きます。

そして、コールされ、舞台へ。
やりきるしかない!と言い聞かせ、スピーチを語りだしました。

すると、過去イチで調子良く喋っていて、自分でもそれに気づきはじめ、このまま踏み外すわけにはいかないというスリル感と、

俺って本番強いタイプなんだわw
練習が報われてますわww う〜〜んwww

なんて、頭の片隅でチラつきはじめて、

普通に、飛びました。

あの舞台と聴衆の面前で、頭が真っ白になる。

地面師のハリソン山中の言葉を借りれば、

"どんな快楽にも及ばない
エクスタシーとスリルが味わえる"

です。このやっちまった感のヤバさと焦りには、癖になりそうなエクスタシーとスリルを覚えてしまいそうです。

ある意味、とてもいい経験をしました。やっべ!!と、ポケットからカンペを取り出す。そして読む。味わい深い体験です。

会場の皆様が、あたたかくフォローしてくださって救われました。その後、ミスらずにリカバリーできました。ありがとうございました。

ちなみに、このスピーチは、後日YouTubeで公開されます。

ハリソン山中曰く、

"追い詰められた時の人間の表情は素晴らしい"

とのことなので、ぜひご覧ください。
一応、編集でカットしてくださるようなのですが、追い詰められてるんだろう私の表情をぜひ探してみてください。素晴らしいはずです。

そんなこんなで、"やりきった" TEDxなのでした。

スピーチ苦手を克服できたわけではないですが、挑戦できたことに自信が持てました。いつでも挑戦者でいたいなと改めて思えました。

河口さん、そして、ずっと伴走してくださった古畑さん、ほんとうにありがとうございました。

以下、スピーチの原稿文です。
ここまで読ませておいて、この先は有料記事という罠はありません。笑



銭湯大好き人間です

日本全国の銭湯を700軒ほど巡り、さらには海外の銭湯に行ってしまうほど、銭湯が大好きです。趣味の範囲では収まらず、「銭湯を日本から消さない」という信念のもと、11軒の銭湯を引き継いで経営している、本当のお風呂屋さんでもあります。

ことの始まりは、学生時代、下宿先の近所に銭湯があったことで、そこに通い始めたことでした。他の銭湯にもいってみたいという単純な好奇心で、近所の銭湯を巡るようになっていき、徐々に全国津々浦々の銭湯まで巡るようになっていきました。


行ったことのない地方の銭湯を巡り、日々の生活でも銭湯に通っていると、そこで繰り広げられる人々の営みに味わい深さを感じるようになりました。銭湯が、身体を洗い清める単なる入浴施設ではなく、人生や社会の豊かさを実感できる場所という魅力を感じ始めたのです。

銭湯ならではの、「他者との繋がり」が、「ささやかな豊かさ」を生んでいると考えています。私はそれを大切にしたいと思って、今こうして、銭湯を引き継ぐ事業をしています。

「ささやかな豊かさ」とはいったいどいうことなのでしょうか。

広島の銭湯に行った時の話です。
湯船が真ん中に一つだけの小さな銭湯で、広くはない浴室に相客が数人。常連と思しきおじさんが二人、黙々と身体を洗っていて、私と同い年くらいのお父さんが、子どもを抱えながら湯船に浸かっていました。

子どもは何やら早く上りたがっている様子で、みかねたお父さんが「じゅうご、数えたら上ろうか」と言っていました。ああ、こんなシーン自分も小さい頃に自分の家の風呂でもあったなぁとしみじみとしていると、「いーち、にーい、さーん」と数を数え始めました。静かな浴室には二人の声が響きます。

この瞬間、この空間が、この親子の家の風呂になってしまったように感じて、本当にこの親子の家の風呂にお邪魔しているんじゃないかという感覚になりました。一方で、相客のおじさんたちは、無視するわけでもなく、どこか受け入れている様子で、黙々と身体を洗い続けていました。

数を数える親子と黙々を身体を洗うおじさんたち。プライベートと公共が絶妙なバランスで入り混じるような、許容された感覚。どこか、精神的な共有が心地よく、味わい深く感じて、私はじんわり湯船に浸かっていました

この時、銭湯には、無意識の共同体意識があるなと気づいたんです。無意識の共同体意識とは、私たちが日常生活の中で、無意識的に感じる他者との繋がりの感覚です。

分かりやすくいうと、通勤バスや喫茶店なんかで、よく見かける、あの人やあの人たち。話したことや、挨拶したこともなければ、交流を求めることもない関係。極めてうっすらした微妙な関係。そこには、無言の了解のようなものすらあります。そんな無意識の共同体意識が芽生えていることありませんか。

無意識の共同体意識は、銭湯を語るときにありがちなコミュニティとは少しニュアンスが異なります。コミュニティというと、所属意識があったり、積極的にコミュニケーションの輪に入っていく必要が感じられますが、無意識の共同体意識においては、全くそうではありません。

銭湯は、長年地域に根ざした場所だからこその、積極的なコミュニティが出来上がってはいます。店主と常連さんが、挨拶を交わしたり、世間話をするまで、コミュニケーションにはグラデーションがありますが、だからと言って、その輪に入らなくてもいいんです。ポカーンと湯船に浸かっているだけでいい。自分だけアウェイでもそれが許される、ちょっと不思議な空間。

これは、入浴というオープンでありながら、プライベートな行為を銭湯という同じ空間で行うからこそ、絶妙な距離感があり、精神的な共有を可能とさせているんだと思います。


何度か、銭湯に通っていると、無意識の共同体だったところから、徐々に意識的になっていくことがあります。

話したことはないけど、よく居合わせるおじさんがいたとして、最近見かけなくなった。久しぶりに見かけたときに、お久しぶりですねと声をかけたところ、簡単な挨拶を交わす仲になった、とか。逆に、久しぶりに顔を出したときに、話したことなっかた店主や常連さんから、にーちゃん久しぶりやん、と声をかけてもらったとか。他には、全然違う場所で、たまたま居合わせたときに、お互いあってなって、いつもの銭湯の!と会話をしたとか。そんな時、自分もこの銭湯の一員として溶け込んだような気持ちになって、所属意識が芽生えていきます。裸の付き合いとはよく言ったものですが、銭湯ならではの無意識の共同体意識があったからこそ、打ち解ける瞬間なのだと思います。

ある銭湯が廃業してしまう最後の営業日。こんな会話が常連さんたちから聞こえてきました。

(関西弁風に)
ここがなくなったら、もう会うこともありませんなぁ。ほんまですね。寂しいなぁ。またどこかであったら声かけてください。うん、ありがとう。またどこかで。 

常連さん同士でもこのくらいの関係性なんだと驚きました。所属意識があっても、繋がりとしては銭湯だけのさっぱりした関係。案外、素性や名前も知らないものだと思います。こんな形もあるんだなぁと思いました。

と、同時に、この銭湯が担ってきた大きな役割、他者とのつながりをずっと維持してきたことにハッと気づいた瞬間でした。この銭湯が無くなったことで、彼らの繋がりは消えてしまったわけです。

数を数える親子であったり、常連さんと挨拶を交わすようになったりなどの、ささやかなドラマはもう生まれなくなってしまったわけです。そして、この場所で何十年と続いてきたそのような営みが忘れ去られていってしまうのだなとも思いました。

人、それぞれの生活がある中で、それが交差する場所。無意識的にもその共同体の一員となってしまう場所。その一つが銭湯です。昔ながらの喫茶店や定食屋なんかもそうかもしれません。

そんな場所が、日本全国津々浦々に、50年100年前から存在し、銭湯であるなら、日々の生活が続いてきたわけです。今も変わらない湯船に浸かりながら、そんな先人たちの営みに想いを馳せると、どれだけささやかな豊かさに溢れていたんだろうと考えさせられます。

だからこそ、次の世代にも、他者とのつながりが味わい深く感じられる場所の一つとして、銭湯を残すことで、ささやかながら人生を豊かにしてもらいたいと思っています。

とはいえ、銭湯がなくても、正直、普通に、それなりに豊かに生きていける時代ではあると思います。その豊かさとは、便利で合理的な社会という豊かさです。この社会の中では、銭湯はなくてもいい存在かもしれません。実際、自分の地元、ここ浜松では銭湯がない生活をしている人がほとんどです。ですが、問題なく暮らしていけます。

ただ、あったらあったで、そこに集う人々の生活がささやかながら豊かになるものだと信じています。そこで繰り広げられる人々の営みや、他者との繋がりのグラデーションが、各々の人生を味わい深くするものだとも信じています。

そんな場所が、まだ生活の中にあるはずです。すでに、無意識の共同体の一員になっているなんてこともあるかもしれません。そこに気づけるか。ささやかな豊かさを意識できるか、です。

どうすれば、ささやかな豊かさを気づけるようになるのかってことですが、ポイントを2つ例に挙げます。1つ目。1回2回いっただけでは、見えてこなかったり、味わえないものなので、週一回でもいいから通ってみることです。通うからこそ、所属意識や味わう姿勢が自然と育まれ、味わい深さが感じられるようになります。

銭湯では、ほっこりするようなポジティブな出来事ばかりではなく、ときには、ネガティブな出来事もあります。「にーちゃんしっかり身体洗ってから入ってや」、と厳し目に怒られるとか。「あかんあかん、ここあのおっちゃんの席だからあっち座って」と、ちょっと理不尽なルールを押し付けられるとか。こんな出来事には、少しむかっとしてしまうけれど、ある意味、銭湯の一員として、みなされているわけです。そういうことに気づけると、いろんな出来事が味わい深く感じられませんか。…ちょっと無理がある?そう味わってみて!

2つ目。この場所で、どれだけの年月、さまざまな営みが続いてきたのか、ということに想いを馳せることができるか、ということです。店主さんに聞いてみるわけです、ここ何年やってるんですかと。40年やってるよ、と聞いたら、この人は40年間毎日ここで過ごしてきたのか。ということは、彼の人生がこの空間であって、その時代その時代に、さまざまなお客さんや人々の生活がここで交差していったんだなと、そこに気づけるか、妄想できるか。

そんなやや俯瞰した態度になれると、ネガティブ・ポジティヴな出来事も味わい深く、他者との繋がりのグラデーションが味わい深く感じられるようになっていくと思います。

ぜひ、私たちの周りの「ささやかな豊かさ」を探してみてください。


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