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インドネシアから来た彼の話

「昔話をしようか」
 薄暗い個室の中、彼の声が静かに響いた。


「インドネシアに行ったことはあるか?」
 私はふるふると首を横に振る。


「俺の目の前には虎がいた。敵意はない、かといって餌にしようともしない。虎は俺のことなんか見えてないみたいに、その場を通り過ぎて行った」
 目の前に虎がいる森を想像して、私の腰あたりが寒くなった。


「その後俺は、生まれ変わったんだ。信じてくれないかもしれないけど、俺には前世の記憶がある。そうだな……3回前の人生まで覚えている。始まりは虎のいた森だ。その後の人生も、聞いてくれるかな。5分だけでいいから」
 5分。それだけの時間ここにいるのは私にとってあまり好ましくない。だけど、彼の語る昔話を聞かずにここから立ち去ることなどできないと思った。


「その次の人生、俺はいつも難しい顔をしてた。1か所に留まってられるような性分じゃなかったから、色々な奴のところを転々とした。俺のことを大切にする奴もいれば、乱暴な奴もいた。そのうちに擦り切れて、ボロボロになって、大した思い出もできないまま人生を終えちまった」
 ボロボロだった頃の彼を想像して、いま目の前にいる彼をそっと撫でた。


「3度目の人生が一番幸せだったかもしれないな。若い男女が俺の目の前にいて、順番に字を書いていくんだ。写真を撮って、それから俺のことを見て笑いあう。それから俺は『おめでとうございます』なんて言葉とともに別の誰かに手渡される」
 幸せだった頃の彼を想像する。今よりも、パリッと固い彼。


「俺の紙としての輪廻転生は、今日で終わる。最後が君でよかった。君はとても優しい。こうして丁寧に折りたたんで、俺の話を聞いてくれた」
 私の手の中で、彼はふんわりと静かに言う。


「ありがとな。さぁ、そろそろ使ってくれよ。いいんだ。俺はそのために生まれ変わったんだ。信じられないだろ?俺は、虎をやり過ごして、財布の中じゃ一番高価なお札で、それから婚姻届と呼ばれる幸せの紙だったんだ。それが巡り巡って誰かの尻をふくことになるなんてね。……ほら、拭いてくれ。君の尻を」
 彼のこれまでの生き様を聞いて、戸惑いがなかったとは言えない。だから最後にひとつだけ。これだけは、聞かせて欲しい。


「このあとだって?さっきも言っただろう。俺の紙としての生は、終わる。もう紙には戻れないんだ。この先のことをどうしても知りたきゃ自分で調べるんだな。 俺はこんなにたくさんの輪廻を経験させてくれただけで幸運だった。日本のリサイクル技術も捨てたもんじゃない。でも……出来れば虎のいるあの森にずっと居たかった。 さぁ、そろそろ君も限界だろ?俺がしゃべってちゃ使えないよな。さよならだ」
 それきり、彼はもう一言もしゃべらなかった。私が彼にできることなんて1つしかない。今は。



人工的な薔薇の香りが個室いっぱいに広がっていた。虎のいる森での彼は、どんな香りだったのだろう。


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こちらのショートショートはピリカさんの主催するピリカグランプリ応募作です。初挑戦です。




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