みんなちがって、みんないい
多様性について考えさせられるようなテレビ番組を、最近よく見かける。
「私とあなたは違う存在」
そんなのは当たり前だと思う反面、当たり前過ぎて忘れてしまいそうにもなる。
審神者業を始めてから私は趣味が増えた。
休みの日に博物館や美術館によく行くようになった。
刀を見るために出掛けるのは楽しくてならない。
そうして出かけた先々で、地元とはまったく違う街の様子が見られるのも面白い。
刀について、歴史について、日本の文化について、古くからある伝承、祭事、慣習、伝統芸能……考えてみると知らないことばかりで、本を読んだり調べてみたりすることも増えた。
そして、日本という国が大好きになった。
同じ審神者であっても、話を聞くと様々だ。
ゲームをゲームとして愛する審神者、創作を楽しむ審神者、舞台観劇にハマる審神者、ペンライトを操る審神者、刀剣鑑賞をする審神者、刀剣を実際に所有する審神者……他にも色々な審神者がいるだろう。
「刀剣乱舞が好き」
入口が似ていたとしても、それがどんな風に、どんな場所に繋がっているかは人それぞれだ。
世間からすれば、刀剣乱舞のユーザーといえばいわゆる「刀剣女子」という括りで、皆似たようなものとでも思われていそうな気もするが、刀剣乱舞のユーザーだけでも色々なタイプがいる。
日本は八百万の神々がいると云われる国だ。
ありとあらゆるものに神が宿っていると、幼い頃から聞かされてきた。
お米にだってトイレにだって神様がいると云われる。だからお米は残さず食べようね、トイレは綺麗にしようね。
こうして欲しいという思いを伝えるのに、よく神様が出てくるような気がしないでもない。
神様のことを信じていないわけではないが、神様も仏様もさほど変わりはないし、教会にも行くし、クリスマスのお祝いもする。
何か深い信仰を持つわけではないけれど、何か叶えたい願いがあったり、困ったことが起きたり、勝負事をする時にはお参りをする。
信仰というほどのものを持たなくても、生活の中に確かに「神様」が根付いている。
中には熱心に信じるものがある方もいるが、日本人の多くはそうしたなにかを持たず、だけど強くそれらを排除しようとも思わない。
様々な神様がいると云われる国だから、そこに在ることにはさほど違和感もないのだろう。
これだけ様々な「神様」が、そこまで大きな喧嘩もせず共存している国なのに、何故か「人」同士はそうはいかない。
自分が好きなものを好きだと言うことすら勇気がいる。
相手が好きなものを否定することも、それに対してイメージだけで決めつけることも日常茶飯事だ。
傷付きたくないからこそ、好きなものを隠す人が多い。
目の前にいる誰かが好きだと言うものが嫌いだとしても、全く問題はない。嫌いでも苦手でもそんなのは個人の自由だ。
だけど、相手を傷つけるのはいかがなものか。
私とあなたは違う。
だから、服の好みだって好きな食べ物だって違う。
「私はリンゴが好き」などと同じような感覚で、自分の趣味を言えればいいのにと思う。
「私も好き!」と言ってもらいたいわけではない。
いや、そうした反応が返って来たならとても嬉しいだろう。
でも、「私はリンゴが好き」に対して「私はミカンが好き」と返ってきたところで、そうなんだね、くらいにしかお互いに思わないだろう。
ただ、私はリンゴが好き、それだけだ。
ミカンは苦手だからあれを食べるなんて私には信じられない……と思っていたとしても、ミカンを食べる人とは金輪際関わりたくない、とまでは思わないだろう。
話の種にはなっても、人と人との関わりに大きな亀裂までは生じないことが多いのではないか。
日本には、何故八百万の神々が存在できたのだろう……ふと、そんなことを考えた。
お米の神様は、トイレの神様の領域を侵害するだろうか?
きっと、しないだろうなと思う。
色々なものに宿っているけれど、それぞれの領域を、それぞれの存在を、互いに認めているのだろうと思う。
八百万の神々がいると云われる国に生きている人間も、そうあれたらいいのにと思う。
互いの領域を侵さず、互いの存在を認め合い、「リンゴが好き」「ミカンが好き」と同じような感覚で趣味嗜好を語れたら、今よりも気が楽だろう。身近なところで同じ趣味を持つ仲間に出逢う機会だって、増えるかもしれない。
みんなちがって、みんないい。
誰もが知る詩の一節のように、他者に、他者の趣味嗜好に、寛容でありたいと思う。
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