死生観リトリート直前ライブアーカイブ映像付 「だーさん『死の光』ってどういうことですか?」
だーさん府中へ
非営利型株式会社Saniwaの顧問も務めて下さっているだーさんこと、島田啓介さんが府中に来て下さった。
ちなみにバナー写真はガネーシャの像を飾っている多磨駅近くの一軒家の前。府中インドの会も推進している身としては勇気を持ってピンポン推してみました。結果、留守でホッとしたのですがw
だーさんに府中に来てもらったと言うことで急遽トークライブしてもらいました。
「Living in the light of Death」翻訳中
だーさんは現在こちらの本を翻訳中。
著者はラリー・ローゼンバーグといいヴィパッサナー瞑想の指導者。
このこの題名。
「Living in the light of Death.」
直訳すると、「死の光の中で生きること」。2つの意味でハッとさせられる。
まずは、死の光。多くの人は死は暗い闇のイメージがあるんじゃないかと思う。そこに堂々と死の光というところ。
次はその死の光の中で生きるという意味。生と死が分けられていない。
この辺りは是非聞いてみたかった。そしてトークライブで聞いてみた。
実際のトークライブ
上記の疑問にも触れているので、気になる方は是非見て下さい。
ただ、1つ僕の中でなるほど!と思ったことがあった。1つに、死生観を深めることついて直観的にも少しずつ学んでいく中でもやっぱり現代の大きなテーマだと日に日に思いが募る。
そこを多くの人と分かち合うためにもエビデンスなども1つのポイントかと。近親者を亡くしたばかりというような状況ではない方でも、死と向き合うことで幸福度は向上するだろうと。死の特性の1つ「必ず死ぬ」を知るだけでも、今生きている価値が上がるから。
ただ、だーさんとのトークで見えてきたことは死と向き合うことで不幸を避けられるという視点があったこと。
↓↓↓実際のトークライブ↓↓↓
死と向き合うことで避けられやすくなる不幸二つ
①損なうことは悪いことじゃない
卑近な例として、日常の生活の中で遭遇するあらゆる喪失など。例えば、だーさんの言葉で損なうこと。生きていれば色々損なう。肌のつやは損なう。視力は損なう。友達に嫌なことを言われ気分が損なったり、友人や家族自体を損なうときもある。
ただ、それは悪いことなのか?ということ。損なうことを悪いこと、という信念を作っていくと実際に何かしら損なうときに自分を苦しめることになる。何かを勝ち得た時に喜びすぎることは、いつか必ずくる損なう時の不幸の種を蒔くことになる。
健全な形で死と向き合うことで、日々の生活の中での損ない(小さな死)との付き合い方を学んでいける。
②いずれ必ず来るのだから今から仲良くしておく。
少なくとも肉体的な死は必ず来る。平均寿命は延びたけど、あくまで平均。実際はいつ死ぬかわからない生を僕たちは生きている。そう考えると、死はまさに影のようにいつも生の裏側に常に動いている。
そう考えたらいつか訪れる死は、いつかその影に覆われる日が来るとも言える。元気で若い時に、その影としてある死と仲良くすることを覚えていなければいつか来る日がただただ怖ろしくなる。
いつかは必ず寄り添い手を取って次なるドアを共に開けることになる死。今のうちから知り親しんでおいた方が良いとは正に。
死と向き合う技術
だーさんが訳されている「Living in the light of Death.」の副題は「On the art of Being truely alive.」。
これまた直訳すると、真に活き活きと生きるための技術へ、とでもなるだろうか。
死の光に照らされて生きることと、真に活き活き生きる技術を獲得することが繋がっているということ。
仏教やまたはヨガの哲学でも出てくる言葉にサムヴェーガというものがある。
サムヴェーガ
生老病死。4苦に出会うことで、目覚めていく。
このままではダメだ!という気持ち。死と向き合ったときに出てくる健全な緊急・緊迫感。せっかく与えてもらった命なので、精一杯使い切ろう!という意識であったり、真理をつかみ取ろうという意識か。
そういう場が仲間が欲しかった
きっとそういう学び舎であり、そういう仲間が欲しいんだろうなと僕は。少しずつそういう出会いに恵まれてきていて有り難いなと、書きながら思った次第。
先に文章を読んで下さった方もいるでしょうが、良かったら動画も是非。もっかい貼り付けておこう。
↓↓↓実際のトークライブ↓↓↓
ちなみにだーさんとはまた6月29日のオンライン座談会&説明会でもトーク部分参加してもらいます。良かったら是非!