忘備録⑧
早いものでもう2月も中頃。
2024年は災いから始まってしまいましたね。
能登沖地震で被災された皆様にお見舞い申し上げます。
惜しくも亡くなられてしまった方々のご冥福をお祈りいたします。
発災後、人命救助、医療支援など様々な支援活動に尽力されている自衛隊、消防、警察、医療従事者等の皆様に、心から敬意を表します。
フラッシュバックに襲われて怖かったと話す知人がたくさんいました。
私は、
「このどさくさに紛れて悪さをする輩がまた出るんだろうなぁ、、、。」
と、TVを見ながら思っていました。
自身の自宅も、2011年の震災以降何度も泥棒に入られました。
で、ビックリするくらい値打ちがある物ばかり盗まれました。
何十本とある釣り竿の中から1番高価な竿
古いアニメ雑誌
プレミアがついてるグッズ
よくもまぁ、見分けが付くもんだと感心しました。
なにせ、その価値を知っている人じゃないと持ち出さないような物ばかり盗まれましたので、、、。
さて、、、
忘備録⑦まで書いてすっかり途絶えていました続きですが、数ヶ月前から自身の震災体験を話す機会が出来ました。
それによって、『暗黒時代』と言っている時期の話もするようになりました。
私にとっても家族にとっても、この13年間で最も苦しんだ時期であり、そこを乗り越えられたから今があります。
私が震災と原発事故を怨んだ時期でもあります。
今はもう、そういった感情はほぼありません。
現場で働く人たちには、頑張ってくれて有り難いと感謝しています。
さて本題、『暗黒時代』について…。
その中身を少しだけ書きます。
ひき逃げ事故後の周囲の対応に、自分たちが『色眼鏡』で見られている事に気付かされました。
それに対しては、怒りよりも失望感の方が大きかったです。
そして、耐えきれず精神疾患を発症してしまった私。
入院もしました。
しかしながら、それよりも何より辛かったのは、某市に引っ越してからの子供たちへの偏見の目とイジメでした。
特に娘は深刻で、かなり辛い思いをしました。
私が不甲斐ないばかりに、本当に申し訳なかったと思っています。
私が病んでいたため、打ち明けられずに1人で必死に耐えていた娘。
娘の不調に違和感を感じて、私がようやくイジメに気が付いたのは、娘の精神がギリギリの頃でした。
思い出すだけで涙が出てきます。
某市での生活は約3年でした。
転機は、息子が他県の高校へ進学し、夫が定年退職した2019年。
夫からの
「貴女の実家にはまだ戻れないけど、近くに引っ越そうか?」
の言葉で戻って来た双葉郡。
心の中ではずーっと
「戻りたい」
そう思いながらも、子供たちの将来を考えて蓋をしていた数年。
しかしながら、精神疾患を患ってからは、事あるごとに
「帰りたい」
と口にしていたらしい私(記憶曖昧です)
娘と2人で引きこもろうとしていたのを、見かねた夫が切り出してくれました。
夫には感謝しかありません。
戻って来て本当に良かった!
双葉郡に来てからは、娘も徐々に元気を取り戻し、将来の目標が出来、それに向かって現在、頑張っているのでございます!
私自身も、戻って来てから運気が上昇しました。
それまで『精神的なモノ』と全て言われてきた不調が、実は事故の後遺症の『脳脊髄液漏出症』だと診断されたのは、引っ越して3ヶ月後の事です。
そこから治療が始まり、途絶えていた腕のリハビリも再開。
「受けても無駄」と言われてきた身体障害者認定もあっさりと受けることが出来、4級となりました。
現在も通院治療は続いております。
いつ終わりが来るかは分からない治療なのです。
しかしながら、確実に良くなっている体なので、夫に付き合ってもらいながら通院治療は続けていきます。
一時期は半寝たきりだったのが嘘のように、今はフルタイムで働いてます。
障害や疾患に理解ある職場なのかは?ですが、体調が不安定な時は遠慮なく休ませてもらえているので助かってます。
『暗黒時代』の詳細を知りたい方は、私の講話を聞きに来ていただければと…。
SNSという媒体に全てをさらす勇気はないです。
精神的ストレスは、肉体疲労より重篤な危機を及ぼすという事が、戻って来て良くわかりました。
精神の安定で、私も娘も自分を取り戻しました。
もちろん、完全に戻る事は出来ませんが、前向きに進む思考は取り戻しました。
…長々と書いてしまいました。
疲れたので、中途半端かも知れませんが終わりにします。
今日までの事はこれで大体書き終わったと思うので、次回はないかと…。
思い出した事があったら書きます。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
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