学会参加報告:産業衛生学会2024広島 最終回
産業衛生学会2024広島の報告、最終回です。その1、その2、その3、その4、その5もご参照ください。
広島訪問ははるか昔に学会で来たのですが、何の学会だったか思い出せないし、一泊だけで観光もせずとんぼ返りでした。今回は3日間あるので、この目でしっかりと「ヒロシマ」を見なければと思っていました。
▼平和公園、原爆ドーム、そして平和祈念館
初日午後は平和公園を隅から隅まで、ゆっくりと回りました。原爆ドーム、映像では数えきれないほど見てきましたが、実物を見るとやはり感慨深いものがありますね。ドームを一回りし、元安川の川べりを歩き、平和の時計塔、平和の鐘、原爆の子の像などを見て回り、平和の池を経て平和祈念館にたどり着きました。ちょうど水上特攻兵の企画をやっていました。30分の動画で概要を知ることができました。
暁部隊 劫火ヘ向カヘリ -特攻少年兵たちのヒロシマー
水上特攻兵、知りませんでした。ベニヤ板製のボートで敵艦に突っ込んだのだそうです。ベニヤ製のボート!?何ということ…
その部隊の一つが広島市の沖合にあったのです。原爆が投下された8月6日、爆心から約4.8km離れたところで訓練をしていた暁部隊は、広島の中で唯一軍隊としての機能を保っていたため、直ちに市内へ救護に向かいました。10代の少年たちが見たのはこの世のものとは思えない地獄絵でした。何十年もの時を経て初めて語るその証言を聞き、嗚咽が止まりませんでした。そして思い出したのが、林光作曲の「原爆小景:第1曲 水ヲ下サイ」でした。
林 光「原爆小景」
私は中学時代から合唱をやっていました。父親は小学校の音楽教師で林光さんは父の仕事仲間だったので、光さんのいろいろな音楽を聴いていたのです。ただ「水ヲ下サイ」という叫びが、当時は実感できませんでした。それが元少年兵の、「みんな水をくださいと言うんだ。でも上官は水をやったら死ぬぞと言うんです」という言葉を聞き、初めてリアルなものとして感じたのです。言葉では言い表せぬ苦しさだったでしょう…
▼放射線影響研究所見学
2日目午後は学会のエクスカーションの一つ、「広島県放射線影響研究所見学コース」を選びました。恥ずかしながら放射線影響研究所、知りませんでした。
この研究所は日米共同で管理運営する公益法人として1975年に発足しましたが、その前身は太平洋戦争が終わった2年後の1947年に米国によって作られた原爆傷害調査委員会(ABCC)です。そこに厚生省が参加して大規模な被爆者の健康調査に着手しました。広島研究所と長崎研究所があります。調査としては寿命調査、成人健康調査、胎内被曝者調査、被爆二世調査などが行われ、物理学的線量推定、生物学的線量推定などの被ばく放射線量の推定や、原爆被爆者のがん発生・死亡、放射線リスク(70歳時のリスク)、放射線リスク(生涯リスク)などの放射線の後影響、さらに免疫学調査、ゲノム調査、放射線関連発がん調査など、放射線が人体に影響するメカニズムの研究がなされています。その研究成果は放射線被ばくの線量限度を定めた世界的な防護基準の科学的根拠とされています(以上、放射線影響研究所の資料より)。
極めて重要な研究がなされているわけですが、それは多大な犠牲の上に成り立っているものであり、被爆国の人間としては複雑な感情を抱きます。「あの放影研か」のような言われ方もすると広報の方が仰っていました。その方自身が被ばく二世で、自分の背景を踏まえ、この研究所のことを正しく知ってもらいたくて広報の仕事に就いたのだそうです。その語り口から、生き残った人やその子孫は、自分たちを襲った惨劇に対しても、何とか意味を見出そうとするのかもしれないと考えました。
放影研が批判的に見られるのは、検査だけして治療をしないから、ということがあるようです。なぜ治療をしないのかについては当時の医学界のいろいろな事情があったようですが、よくわかりません。そのような事情があっても、未だに多くの方が調査に協力されていることには頭が下がります。
▼そして平和記念資料館へ
平和記念資料館は修学旅行生や外国からの観光客でいつも混んでいたのですが、夕方放影研から戻ると比較的空いていたので待たずに入ることができました。流れに乗ってさまざまな資料を見て歩きました。資料館の通路の中ほどから公園を見ると、平和の池と原爆ドームが一直線に重なって見えるのですね。
公園の写真をFacebookに載せたところ、昔広島に住んでいた知人が、今はこんなに混んでいるんですね!とビックリしていました。そう、本当に人が多かった。そして海外からの観光客が平和公園を散策し、原爆ドームを眺め、たくさんの資料に見入っている姿に胸が熱くなりました。「広島」を知ってくれてありがとうと言いたくなった。ぜひ見たことを世界の人々に伝えていってもらえれば、と願ったのでした。