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久しぶりに、小沢牧子さん『「心の専門家はいらない」』を読む

この本を読むにあたっては、小沢さんがどういったタイプの「心の専門家」をいらないと言っているのかを、明確にしなければならないと思うのです。

小沢さんが批判している心の専門家は、権力関係の中で適応していくことを促すものであって、しかもその適応は国家権力の思惑が背後にあるものです。かつ、ここが重要なのかもしれませんが、その権力関係というのが、いわゆる暴力的なものではなく、やわらかいもの――つまり、自らを管理化してゆく――というものだということです。

心理学と戦争との関係には、私たちは自覚的にならねばらないものだと思います。兵士として機能するかを診断するのに、一部の心理学が活用されたことは、現代のさまざまな社会問題を考えるうえで、知っておいてよいことかもしれません。

小沢さんは、人をモノ化するパターナリズムや医療化、消費社会化を危惧される観点から、この本を書かれています。小沢さんの文章を読んでいると、その文章から生身の人間としての感覚が伝わってきます。

それで、最終的に、小沢さんは「縁の思想に賭ける」とおっしゃるのです。

仏教における縁起とは、要するに、縁が立つ・起こるわけです。そういうものは、日本にもともとあったではないか、と小沢さんは言います。

小沢さんの問題意識からこの結論にまで至る論理展開は、他にも道筋があるのかもしれませんが、この結論はとても興味深いもので、近年の新しい精神分析や心理療法の流れの中には、こうしたエッセンスが入ってきているようです。

ニック・クロスリーという社会学者は、間主観的フィールドをfabric(織り物)として捉えるのですが、それはつまり、二者関係における間主観的フィールドは、織り物としてつながって二者を超えた社会へと働きかけてゆくことを説明されています。

クロスリーに倣うわけではないけれど、個と個が織り成す二者の中での間主観的なやりとりを私は大切に考えているし、それが人を癒し育み豊かにすると思うのです。

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