見出し画像

母なるものからの社会批評――中村佑子『マザリングーー現代の母なる場所』より

社会学者ジョン・アーリは『社会を越える社会学』という本の中で、もっぱら男性の時間となっている商品化されたクロック・タイムに代わるものとして、出産や育児といった「自然な」活動の中で女性が育める時間について書いています。

それは、「氷河の時間」と表現されるもので、ゆっくりと流れる、どっしりとしたものであって、何世代も見なければその変化を捉えることはできないものとされます。

こうしたゆっくりどっしりと流れる時間の中にある、小さな変化や出来事を記述する言葉を、私たちはもってこなかったのかもしれません。

中村佑子さんは、ご自身の妊娠・出産体験を通して、その時期の女性たちの言葉が絶対的に少ないことに気づかれ、書き始めたと言います。ワンオペ育児や保活のたいへんさ、社会的に辛い立場におかれる女性たちを鼓舞する言葉は巷にあふれていれど、まだ見ぬ、語られぬ「女性性」があるのではないかと問います。

本のタイトルにもなっているマザリングという言葉は、近年、社会変革を実現するためのラディカルな概念として捉え直されつつある動きがあるそうです。

資本主義成立の背景には魔女狩りがあり、自律的な女性たちは、火炙りに処され、社会の周縁部へと追いやられました。代わりに、女性たちは自らの身体の自然さをクロック・タイムの時間の中で管理しなければならなくなりました。

『Revolutionary Mothering: Love on the Front Line』では、生殖医療は新自由主義を加速させるとし、資本主義を内側から支えてしまうようなこうした母親性ではなく、「生命を創り、育み、肯定し、支える」存在として母親が描かれ、暴走する資本主義からの解放を描くものとしてマザリングが語られると中村さんは言います。

母を考えることは、自然と人間との関係をとらえ直すことでもある。子どもや、他者からの要請に人間はどう応え得るか。ケアとは何か、その問いに向き合うことでもある・・・・・・生きていてほしいとただ願うこと、その生命を弱さも混沌も含め、成り立たせようとする人がそばにいること。他者の存在を抱え、生と死をもふくむ、生命のもっともそばにいることが「母を行う=マザリング」なのだとしたら、いま社会に「マザリング」をと、そう言いたい自分を私はおさえることができない。

中村佑子 2020年『マザリング』集英社

中村さんの文章は、しっとりとしていて、まるで映像を観ているように色彩あるものでした。彼女が映像作家だからなのか、母親に向けるまなざしにもそれを感じます。

読者層にも配慮が行き届いていて、どのような立場の方が手にとっても、抵抗することなく受け入れていけるような文章で書かれていました。私が馴染んできた、つまり、獲得してきた男性社会の文章とは随分違うもので、彼女の表現もまた、「マザリング」であるように思いました。

中村さんのように、最近、語られてこなかったものを語ろうとする「女・母(わたし)」たちに出会うことがしばしばあり、不透明な時代の中にありつつも、変化の兆しをそこに見たくなります。

マザリングは、すべての人間が、最初と最期に行き着く場所。ケアが必要となるそのときに、きちんと着地できるように。いわく、危機を回避するために、馴らされた自明なあり方を、問い直す時代にあるのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?