ボーエンから読み解く自己分化と自律的な協働
多くの方が感じていることだと思うのですが、日本の組織や集団に所属していると、いわゆる「同調圧力」に息苦しくなることがあるのではないかと思います。
あらゆる領域で多職種連携がいわれる昨今ですが、なかなか実現できていない現場の声をよく聞きます。どうしても、権力をもっている人の「つぶやき」に対して、周囲が忖度して「唯々諾々」となりやすい。
そして、それがいじめやハラスメントに発展することもよくあります。
それで、どっちかがどっちかに従うというかたちではなく、協働してゆくということを考えるとき、やっぱり自己分化の度合いはひとつの鍵に思えるのです。
このことは、家族療法の古典であるマイケル・E・カー&マレー・ボーエン『家族評価――ボーエンによる家族探究の旅』という本に書かれているものでもあります。
ボーエンはこの本の中で、分化尺度を考察しています。ボーエンは、偽りの自己と確固たる自己について定義するのですが、「確固たる自己は、ゆっくりと形成され、自己の内部からのみ変化しうるような堅固に保持された確信と信念からなる」のに対して、「偽自己は、集団思考に合わせて作られる」と書いています。そして、分化尺度が最も高い人については、「あまりいないけれど」と述べつつ、次のように書いています。
ボーエンは、「人には他の人と情動的な関わりを求めて群れようとする一体性の本能と、他者とは基本的に異なり自律性を持とうとする個体性の本能がある」と言います。
後者で述べられている「自律的に協働すること」はなかなか難しいのですが、それを遂げた人は「自分で選んだという主体的な取り組みの感覚」に近づくことができるようです。
日本社会では、「自己分化プロセス」を経るのがなかなか難しい場合が多いようです。それはなぜかというと、心が横に割れている(フロイト的な意識と無意識)よりも、縦にスプリットしている場合(良い自己対象と悪い自己対象)がままあるからといえるかもしれません。
これが、いわゆる手の平を返すように突然始まるいじめやハラスメント、組織における上司の恩恵に預かれる限りは褒め称えるにもかかわらず、上司がちょっとでもその方の自己対象機能を損なうと過度にバッシングする傾向などにも関係しているのですが、この続きは、どこかでまた書きたいと思います。