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不安になってしまうとき
生きていると、不安がつきものです。
不安な気持ちが出てくると、何だかすべてが不安だらけになってしまって、「あぁ、もうダメだ」という気分になってしまうこともあるかもしれません。
こうした不安は、①科学が発展し、未来が予測可能になったがために生じる不安と、②人間が発達・成長するときに生じる「健康な不安」とがあります。
現代を生きる人たちの「不安」については、社会学ではウルリッヒ・ベックが早くから書いています。ただ、それは原発や環境汚染など、リスクが高まった社会における不安です。
科学はあくまで「確からしい」ことを検証するための考え方です。要するに、仮説検証するのが科学的手法なのです。にもかかわらず、私たちは、未来に起こりうるかもしれないわずかなリスクにおびえているともいえます。
もうひとつ、「健康な不安」について書きます。
「変化する」というのは、未来へ「跳躍」するようなことです。社会学者・ピエール・ブルデューやアンソニー・ギデンズが述べているように、跳躍するためには、信頼が必要です。そして、信頼とは、「未来を賭した、賭けなのだ」ともいいます。
私たちは、誰かを好きになるとき、その人が自分と一生添い遂げるのかを証明することはできません。その人を信頼する力と、その後も続けていく地道なやりとりで、結果として、一生の絆を証明するわけです。
もしかしたら、誰かに恋をして高揚した気分は、この「跳躍」をやり遂げるための目隠しのようなものかもしれません。だから、一瞬のもの。
日常が続いている中で、私たちが「変化」するには、こうした「跳躍」をめぐる意を決したやりとりが不可欠になります。
変化は怖いのです。自分も知らないところへ行くのだから。
でも、人間の心が成長・発達するときには、どうしてもこの不安は生じるのです。それが健康な不安なのかどうかを、見極めることができると「大丈夫」と思えるのだと思います。