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疲れたので帰ります

 ユズリハはお茶をよく飲む子だった。
 出かける前に一杯、家に帰ったら一杯、眠気ざましに一杯、食事した後に一杯、そうやって一日のなかで何かと理由をつけては飲んでいた。
 その都度お湯を沸かして急須についで飲んでいたから、それはそれなりに時間を要する行為で、ともすれば朝ぎりぎりまで教室に姿を現さず遅刻してしまうこともしばしばだった。
 委員長のササは遅刻が増えている彼女にこう助言した。
「水筒にいれて持ってきたらどうなの。それならいつでも飲めるし、家を出る時間も少しは早くなるんじゃない?」
 しかしササの提案はユズリハによってあえなく却下されてしまう。
「それはだめなの。お茶は鮮度が命だから、淹れたてのものじゃないと色も味も変わってしまう。それはつまり、お茶の死なの」

 ふたりは今下校中で、ユズリハの家に向かって歩きながら話しているのだった。
 クラス担任は新学期以来、遅刻を繰り返しているユズリハについて気を揉んでいて、委員長であるササは、それとなく話してみてくれないかと頼まれていた。
 そして今日最後の授業が終わった後で、帰りの支度をしているユズリハにササは声をかけた。二人が話すのはこれが初めてだった。
「ねえ、ユズリハさん。この後って時間ある?」
 するとユズリハはすこし困惑したような顔で、遠慮がちにこう答えた。
「疲れたので帰ります」

 そういうわけでササはユズリハと帰りながら遅刻の事情を聞くことにした。歩きながら話すぶんにはかまわないということだったのでいっしょに帰ることにした。そこでお茶の存在が明らかになって、今こうしてユズリハが帰りたがっているのも一刻も早く家でお茶が飲みたいためだと分かり、ササは内心呆れるような思いがした。そんなにお茶が大事なの?と。ササは飲み物には別段こだわりがなく、水道水でも何でもよくって、喉が乾いたらそこにあるものを飲めばいいというタイプだった。でもたまに朝早くリビングに行くと父親がゆっくりコーヒーを飲んでいるのを見かけることもあったので、ユズリハにとってのお茶もきっとそういうものなのだろうと解釈した。いわゆるモーニング・ルーティンっていうやつ。
 そうこうしているうちにユズリハの家の前まで来てしまったので、じゃあまた明日ね、もう遅刻しないようにね、そんなふうに言ってお別れしようとしたら、とつぜん空から雷鳴が響き、ぽつぽつ夕立が降ってきた。あいにく傘は持っていない。しまった、走って帰るか、そう思っていると
「雨がやむまで、家に来る?」
と、ユズリハが言った。

「これは知覧茶。鹿児島のお茶で、濃い水色が特徴なの」
「色が大事なの?」
「うん、まあイメージの問題というか、きれいなのに越したことはないね。お茶を飲むのは身体の中にあたたかい森を作るようなことだって、おばあちゃんはよく言ってた」
「森?」
「そう。外で何かあっても、そこに逃げ込めば大丈夫っていうところ。森はシェルターみたいなところで、自分のためにそういう場所を持つことが世で生きていくには必要なんだって、そう話していたの」

 ササはユズリハの家の玄関を上がったところに座らせてもらって、ユズリハが淹れたお茶を飲んでいた。隣ではユズリハがたっぷりとお茶が入ったカップを両手で包むように持ち、ゆっくり飲んでいる。ユズリハはようやくお茶を飲むことができて人心地がついたという表情をし、まとう空気もゆるんでいた。
 外はどしゃ降りの雨で、硝子戸をたたく強い雨の音が聞こえる。ササはすっかり素直な気持ちになっていて、こうして雨の音を聞きながら屋根の下で湯気の立つものを飲むのは、なんて心安まることだろうとしみじみ思っていた。湯呑みをのぞき込めばお茶のきれいな緑が見えて、やわらかな新緑みたいな良い香りがして、ユズリハがいうところの「森」というものが、ササにもわかるような気がした。

 しばらくして雨が上がったので、ササはユズリハの家をお暇した。外はまだ明るく雨上がりの澄んだ空気がきもちよかったので、少し遠回りしたくなって、近くにある神社を突き抜けて家まで帰る。
 池にかかっている赤い橋のうえに立って下を覗くと、池の中を鮮やかな錦鯉がすーっと泳いでいくのが見えた。底には緑色の水草がたくさん生えていて、それは草原のように水の流れに沿って涼しげにそよいでいる。ああ、ここにも「森」があるじゃない。そんなふうに思ってササはなんだか愉しい気持ちになった。そして池の中央には人が数人上がれるくらいのごく小さな島が浮いていて、そこで亀が二匹、のんびり甲羅干ししているのを見つけた。二匹は雨上がりの夕さりの、一日の最後の光を愛おしむように、寄り添って静かに佇んでいた。ササは明日学校でユズリハに会ったら、あの亀のことを教えてあげようと思った。


🐢ヘッダー画像:秋田京花さん


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