Breakfast In Bed
季節はいつだったのか、なにを着ていたのか、何か思い出したいことがある時に私はいつもそうするの、そうやって思い出しているんだよ。
かつて私にそう話してくれた人がいて、それは確かに着るものにこだわっていて自分がほんとうにすきなものしか身に付けなかった、けして派手ではなかったけれどいつだって洒落ていた彼女らしいやり方だった。
そのときはあまり気には留めなかったけれど、ずいぶん後になってから、ふっと思いだすようになった。
季節はいつだったのか、なにを着ていたのか。
なんども見ている夢のような肌ざわりで、私とは違う彼女のやり方を思いだす。
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「実は私、今日が誕生日なの」
「えっ、そうなの」
「そう、誕生日なの」
「そっかそっか、そうだったのか」
「待って、それ以上は何も言わないで」
「え」
「おめでとうとか、ぜったいに言わないで」
「えーっと、それはどうしてだろう」
「私は誕生日なんて全然うれしくないから、おめでとうなんて簡単に言われたくないのよ」
じゃあなんで私に話すのよ、という言葉は飲みこんで、歩いていた。
旅行中だった。当時互いに気になっていた作家の回顧展をやるというので、森の中にあるその美術館まで、はるばる観に行った帰り道だった。
初夏で、避暑地で、女ふたりで旅行していた。
彼女の後ろすがた。束ねた髪と麦わら帽子の黒いリボンが背中で揺れる。
この季節はなかなか日が暮れないから、夜になっても気づかないまま、私たちは本当の時間からどんどんズレて、ずーっと歩いていってしまいそうだった。旅をしているなら、なおさら。
考えなくちゃいけないことはたくさんあるのに。たとえばこれから泊まるホテルまでの行き方とか、翌日の過ごし方とか。
いや、もっと別の、ほんとうに大事なことがあって。
しかしそれらすべてを投げうって、私たちはその夜、ただ歩いていた。
疲れてしまったからどん兵衛でいいよという彼女を引っぱって、すっかり暗くなってしまった通りのなか、オレンジの明かりが灯る小さなレストランを見つけて食事した。
私はソーセージのピザ、彼女はいちじくのパンとチーズを注文して、ふたりでルッコラのサラダを分けて。
それから赤のグラスワインを一杯ずつ頼んで乾杯したけれど、誕生日のことは口にしなかった。
ひんやりした風を感じて目をあけると朝だった。
隣のベッドで、彼女がしずかにお茶を飲んでいる。
膝を抱えて、開け放った窓のそとを眺めながら。
備え付けのパジャマが肌に合わなくて半裸で寝ていた私は寒くて小さなくしゃみをした。
私が起きたのに気づいた彼女が、こっちを見ておはようを言う。
私もおはようを返す。
「誕生日、終わったね」
「うん」
「嫌な日が終わって、よかったね」
「うん」
それから私にもお茶をくださいとお願いすると、ティーカップに淹れて持ってきてくれた。ガラスのうつわに入ったフルーツもいっしょに、どうぞと言って。
「これはなに?」
「あなたが眠っているあいだ、暇だったから外を散歩してきたんだけど、そのときに買ったの。途中にあった無人販売所みたいなところで。なにも書いていなかったからわからないけれど、柑橘類の何かだと思う」
ベッドの上で熱い紅茶を啜りながら、名前のわからない果物に手をのばす。
瑞々しい甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がり、目がさめる。
「ほんとは誕生日だってこと、誰にも話すつもりなかったの。
でも、うっかり言っちゃった。
あなたには知っておいてほしかったんだと思う。
その上でいつもどおりの普通の一日として、そばにいてほしかったんだと思う」
「いいけれど、彼はこのこと知っているの?」
「いや、話していないから知らないよ」
彼女は就活するのも働くのも自分には無理だといって、学校を卒業したらすぐに結婚したがっていた。
そして「そのために用意した」という、うんと年の離れた彼氏と付き合っていた。
でも私にはそんなことが本当に可能なのかどうかわからなかったし、おそらく彼女自身もそうだった。
旅行から帰ってきてしばらくすると、彼女とは連絡が取れなくなった。
そして秋になって冬の訪れを感じ始めたころ、彼女が学校を辞めたというのを風の便りで知った。